空間情報デザイン研究室
空間情報デザイン研究室 小林一郎
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2008.09.13   一人旅


「一人旅」または「矜持」について
いよいよ、「あとがき」を書くときが来た。が、すでに十分書いた。これは完成原稿というより、本来、世に出ることのない「下書き」である。blogとはそもそも、どうでも良い身辺雑記(いわば一局)を語る場なのだ。書くことにこそ意義がある。そのようなものに「あとがき」はふさわしくない。判ってはいるが、最後に「旅」について書きたい。

この人はどうしてこんなに融通が利かないのかと思う時がある。きっと一人旅が嫌いなのだろうと思う。団体旅行もだめだし、出張で行く国内旅行もだめだ。自分を無名に戻す(相手から偏見なく見られる立場に身を置く)ことがないからだ。見知らぬ世界では、国家公務員だとか、研究者だとかいっても、どれほどの威力も持たない。貧乏旅行なので、問題を金で解決できない。途方に暮れつつ、少しづつ自分が強くなっていくしかない。一番弱い人間が、一番広く世界を見ておく必要がある。柔軟に、かつ、断固とした行動が必要だ。葉書を出すのも、コーヒーを注文するのも同じだ。日本にいてはそのような感覚が身に付かない。

周囲を常に気にするというのも同じことだろう。歩きながらヘッドフォーンをしている人は可哀想だと思う。人間に取って最も大切な感覚が鍛えられないからだ。つまり、五感を総動員したときに、はじめてやってくる第六感。50日弱の旅であったが、良い勉強になったと思う。慣れてくると、きっとこうなると先を読む。読めば、あらかじめ、確認をしておくべきだ。「汽車は、6時に出ますよね」。その会話から、不幸な事件に発展することもあるかもしれないが、幸せが訪れることもある。自分の気づかなかったことが色々と判ってくる。それすらも、自分の感覚で上手く処理することが重要なのだ。

「一人旅」に最も近いのは読書だ。結局、本を読んでいない人は、「一人旅」をしていない人だと思うようになった。回数が問題ではない。その後何度も旅をしたが、最初の「あの旅」以上に学ぶことはなかった。同じように、若き日の数冊の本や幾つかの映画が、実は自分の一部となっていることに気づく。

くどいけれど、軽い不幸は、人間にとって必要なことなのだ。トラブルを避けたいのなら、、じっと部屋に籠もっていればいい。しかし、それでは何も学べない。「教えてください。頑張ります。何でもします。」で何かが得られると思ってはいけない。それでは自立的に行動できる人間にはなれない。大事なのは、次々とやってくる小事件をいかにストレス少なく越えていけるかだ。自分自身で、まずは「答え」を用意することだ。それが正しいかどうかはそれほど重要ではない。小さな事ではあっても、答えを自分の脳みそで「捻り出す」ことが大事なのだ。「やり方は誰も教えてはくれない。頑張るだけではだめだ。必要最小限のことだけすればいい」。人生は短く、やるべき事は山のようにある。

「若者は孤独で良い。一人旅の途中なのだ。卑屈になる必要はない。ただ、人間としての(あるいは学生としての)矜持は忘れてはならないだろう」。

この言葉を、57才の私から、27才の僕への無事帰国に対するお祝いの言葉としたい。

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2008.09.07   一石


「一石」または「伽藍」について
F.フェリーニの『道』のなかで、主人公ジェルソミーナが「自分には何の価値もない」と悲嘆に暮れたとき、旅芸人に「こんな石にさえ価値がある」と諭される場面がある。美しいシークエンスだ。どれほど多くの人々がこの言葉に勇気づけられたことだろう。学生時代の私も、「そうか、一石でもそうなのだから、僕にも何かできるかも」と単純に、一つの石の価値を信じた。

同じ頃『戦う操縦士』を読んだ。大学図書館の本なので、正確な文章が確認できない。良い本は買っておくべきだと後悔している。その中で、「石が伽藍(大聖堂)を規定するのではなく、伽藍が石を定義する。」といった意味の文章があった(はっきり覚えていない)。重要なのは、石ころを幾ら集めても伽藍にはならないということだ。ある意図のもとに石が集められ、構築された時、伽藍となり、橋となる。

大事なのは「一石」ではなく、「石群」だ。つまり、一石がいかなる意図のもとに集められたかだ。パリでもケルンでも、伽藍は私に巨大なスケールで迫ってきたが、石群を統べる圧倒的な「意図」が伝わってこなかった。一方、遠く見え隠れする丘の上の伽藍シャルトルは、天空に向かって唯一無二という言葉の具体例を示していた。それは、量(スケール)のみでは到達できないものだということも理解した。石の文化というものの根幹にある何かを実感し、圧倒された一瞬だった。

九州工業大学・岡田君の『電車の敷石研究』に期待した。ある「意図」のもとに集められた石群が再び解かれ、それぞれの一石に戻ったとき、どんな価値があるのか。「意図の証としての一石」論とでもいえばいいのだろうか。石橋の残骸に価値はあるか、という問題にも通底する。逆に言えば、「意図」さえ示せれば、石は総替えしても良いのかという質問にもなる。世界遺産の評価(「科学技術遺産は可能か」)で論議されている問題にまで行き着きそうだ。

さて、研究室のHPの「スタッフ」欄の写真は、カルナックの石群だ。フランス・ブルターニュ地方に紀元前から存在する巨石群(直線状列石)は、明らかに人間の営為の賜だ。最近これを見学し、「唯一無二」という言葉を久しぶりに思い出した。HPを見たある人から「意味不明」といわれたが、私が是非ともその写真を載せるように求めたのは、1978年にも感じたその言葉の迫力を伝えたかったからだ。1978年の旅行記はこの説明のためにも書きたいと思った。

つまり、石を人に置き換えよう。「一人」はどのようにして「人群」となるのか。『戦う操縦士』の真意もそこにあったと思う。我々に別れがない理由も実はそこにある。「一人」は伽藍ではない。我々という集団が伽藍たるには、何が必要なのか。あまり、難しいことは言わないでおこう。関係を保つことが大事だ。去る者は追わないが、来るものは拒まない。しかし、「意図」を共有できないものは、集うべきではないだろう。



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2008.09.01   一局


「一局」または「誠実」について
囲碁や将棋の世界では、局後の検討をする。勝者には楽しい一時であるが、負けた者には気の重い作業だろう。しかし、その時間を超えることが次に繋がるのだ(息子達にその意味が判っただろうか)。さて、検討中に「一局ですね」といえば、「その手は面白いが、現時点でこれ以上考える必要はない」ということらしい。つまりプロは、軽い表現で、枝葉を切り捨て、本筋に迫っていく。1978年の旅は「一局」であり、それを未練たらしく振り返ってみるのは、素人ゆえのことだ。がしかし、それでも語らねばならぬ一局もある。

懐かしくて30年ぶりにチェスの本を眺めたりもした。局面を詳細には覚えていないが、明らかな勝勢を逆転されたことは確かだ。あの時、変な受けをせず、攻めていれば勝ったはずだ。と思うのは詮無きことなのだが、この歳になると過去が楽しいこともある。当事者意識が後退するからかもしれない。枝葉ばかりの話を書いたのもそのように理解して貰えばいい。

私は恩師と呼べる人を持っていない。常にこちらから落ちこぼれて行くので、先生方にしても可愛い学生ではないだろう(そんな人をどこかで見かけませんか)。I先生には英語以外に何も習っていない。しかもその英語さえ、未だに上手にならないのだから恩師などと、こちらから申し上げようがない。が、旅行に関しは丁寧にいろんなアドバイスを頂いた。あの旅で常に「前向き」でいられたのは、先生のお陰だ。経験者の意見は貴重。「あとで出くわす困難に対処する術(すべ)の予習となる」。今改めて、心から感謝したい。

フシェールには、帰国後直ぐに絵ハガキを出し、先方からも返事が来た。10月までは、お互い極めて近くにその存在を感じていたはずだ。その直後、私が出した手紙で音信が途絶えた。人間が誠実で有り続けるということは、難しいことだ。非はこちらにある。それを認めた上で、彼女にも心から感謝したい。結果として、「一局」となった出来事に対しても人は深く考察し、何かを得ることができる。私の人生の入り口で、私が彼女から学んだことは少なくはない。フランスと彼女は私の中では不可分に存在し続けている。そして私は、今でもフランスが嫌いではない。


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2008.08.27   一瞬


「一瞬」または「責任」について
27才の僕を、57才の私が眺めた。奇妙で愉快な旅であった。今振り返れば、1978年が、私にとって最重要なのは、あの旅があったからではない。ほんの少し後に、多少の因果関係はあるともいえる出来事があり、私の人生は一変する。あれほど、大学を辞めたいとか、フランス人になるのだとか騒いでいたのに。
 
私にとっては昨日の出来事なのに、27才の読者にとっては、生まれる前の話なのだというのも、途中になって気がついた。私の息子達にとっては「成田開港」も「サザン・オールスターズ登場」も「大化の改新」も生まれる前の出来事なのだ。物理的時間と心理的時間の長さが全くの別物だということを本当に強く実感した。私には一瞬の距離の過去が、実感不可能(生まれていない昔)であるという意識の差は極めて大きい。
 
この旅で得たものが何かを、今振り返るのは難しい。しかしたとえば、私は昔から、焼酎やワインが好きなわけではなかったということを知った。わずかに残った資料をもとに出来るだけ忠実に旅を再現してみたが、ほとんど毎日ビールを飲み続けている。「たしかに昔はそうだった」と今にして気づいた。同じことはたくさんある。「橋のことは何も知らなかった」し「旅慣れてもいない」。30過ぎて、少しずつ自分を作って行ったということなのだろう。

30前後の人に、私の旅を通して語りたいこともあったが、これは上手く行かなかったかもしれない。学生達に「だめ出し」ができるほど、優れた27才ではなかったことだけは判明した。しかし、極力くだらない時間が長い方が良いのだという、私の日頃の真意は伝えたかった。「結婚が遅い方が良い」ということではなく「責任ある立場に立つまでは、子供で良いし、小さな失敗から学び続けるべき」だと今も思っている。

誤解しないでほしい。無責任な日々を繰り返せと言っているのではない。できるだけ小さな傷を、できるだけ多く負い続けろといいたい。それはあくまで、しかるべき時が来て責任ある立場になったとき「効いてくるからだ」。いずれ、上司になり、夫または妻になる。父や母になる。それもまた、「責任を持つ」という範疇に入っている(ちなみに上記の理由から【出来ちゃった婚】は人間として最悪)。そして、時が来れば、明るく元気に責任を全うして欲しいとも思っている。当分その時は、来ないとは思うけど。


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2008.08.21   東京



8月20日(猛暑)
昼過ぎ、成田着。さすがに日本の蒸し暑さは違う。亜熱帯の国なのだと実感する。途中モスクワでの乗り換えの時、フランス人と話した(母親はきれいな人なのだが、後から4人の子供がゾロゾロついてくる)。空港にご主人か迎えに来ていたが、コインロッカーが判らないらしい。カウンターで質問していたが、フランス語が通じない(当たり前)。彼らの難渋ぶりが、手に取るように解る。コインロッカーは旅行中に随分お世話になった単語だし、フランス語を喋るのは全く苦にならない(上手にはなっていないけれど)。なにより、通じているのが愉快。

さて、旅は続いている。日本円を持っていない。どこの国でもやったように、円のTCで1万円を1万円に交換する。我ながら良い考えだと思い、続いて、「馬鹿か」とつぶやく。東京での土産話もあるので、明日帰熊することにし、羽田―熊本の予約。テレビでは、PL対高知の高校野球決勝戦の最中だ。「あ、こんな事もあったのか」と思う。毎年、学生と優勝校予想の賭をしたりして、結構楽しんでいたが、いきなり終わりでは身も蓋もない。PLの逆転野球とか熊本工大校の執念野球とかが流行ったらしい。成田、東京シティターミナル、東京駅、浜松町と乗り継ぎ従兄弟のバイト先へ。兄弟と僕と3人で、「すし長く食べてないので、懐かしいでしょう」などと調子よくたかられて、ビールを飲む。日本のビールが一番旨い。

40日間、多少体調の悪かったときもあったが、よく食い、よく飲み、そしてよく移動したものだ。明日は熊本に帰って、おみやげ配りをしなければならない。


クールダウンに入るので、9月中旬まで、あと数回「あとがき」を書く予定


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2008.08.20   パリ



8月19日
ヘルメットを持って帰るか、小考。この国の人たちは、きっと使い回しをするだろう。誰かの役に立てばいいと思う。鍵と一緒にイスに置いておくことにする。名残惜しいが、身支度を調え、朝食をすませる。熱いコーヒーと熱い牛乳・クロワッサンとバゲット、バターにジャム。すっかりカフェ・オーレ派になった。北駅から空港へ。人も少なく、朝の光が斜めに射し込んで来る。明るく爽やかな気持ちになる。

空港は込んでいた。そうか、日本人が多いのは、お盆休みなのか。みんなヴァカンスが終わったのだ。ツアーの集合時間にはたっぷり時間がある。スペインで懲りたので、フランは山のように残してある。赤と白の葡萄酒、ビスケット。どれも自分の口には入らない。馬鹿らしい話ではある。まだ小銭が残っている。ペーパーバックを6冊、雑誌を4冊買う。カセットも探すが、バルバラのものはない。この店にないのか、その様なカセットがないのか、食い下がる気力がない。本当に何かが終わった。


ジャン・フェラの「夜と霧」とジャック・ブレルの「愛しかないとき」について書きたかったが、止めた。いずれも、美しいシャンソンである。アメリカ流の反戦歌ではない。

以下、未完

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2008.08.19   パリ



8月18日
8時起床。昨夜からバストイレ付きの部屋に移ったので、快適。食堂に行くと日本人が2人座っていた。日本語を聞くのは久しぶり。福田首相が日中平和友好条約を締結したとか。外は、日差しは強いが、風があるので、爽やかな秋晴れ。午後にはSolexを例の税関の親父に売りに行くので、それまで最後のドライブをすることにしよう。

9時半外へ出る。Solexが見あたらない。誰か場所を移したのだろうと思い、周囲を探すがない。ホテルの玄関まで戻ると、外灯にはサイクリング用の自転車が2台立てかけてある。フロントに「盗難が起こった」事を告げる。自転車の主は髭ずらのアメリカの大学生である。英語で盗まれたが出てこない。フランス語を喋る気分にならない。良いことなら身振り手振りで楽しくやるのだが、茫然自失。

主人に向かって、「あなたがあそこで良いと言った。責任はホテルにある。」といいたいのだが。3晩も外灯の下にさらしておけば、パリなら盗難に遭うに決まっている。ホテル内にいれておくべきだった。どうすべきかと思って(実際は何も考えてはいなかった)じっとしていると、主人が、盗難の申告のためのメモを書き始め、これを警察に届けるようにという。親切にもオフィス(警察署)も教えてくれる。

この感覚のずれはどうしようもない。日本なら、主人は平身低頭し、恐縮しながら、一回り探しにでるだろう。自分たちも被害者の心情を共有し、その上で、警察に電話を掛けてくれるはずだ。しかし、ここでは、あくまで僕だけが、被害者だ。警察に行くことをすすめること自体が、特別な親切なのだろう。同情ということが態度に出ない。

北駅東側のオフィスは正しく事務所だ。若い事務員が3人いてタイプの前で事務処理をしている。隣には、僕以上に落ち込んだドイツの青年が座っている。ドイツ語でボソボソ話している。あとで聞いたら、有り金全部盗まれたらしい。この時点で、僕はこう思った。「どっちみち、Solexは駅の税関吏の奥さんにプレゼントするつもりだった。別段、落ち込む程のことではない。処理に要する時間が浮いた分、はやく最終日の観光を始めるべきだ。ある面ホットしている」はずだ。けれど、頭で理解できても、心が満たされないことは良くある。

「もし、バイクが出てきたら、日本に送って良いか。」「そのとき、送料は当然着払いだ」といった感じのことを、フランス語で女性事務員が聞いてくる。OuiとNon以外の言葉が浮かんでこないし、どちらを答えればいいのか、よくわからない。隣の彼のせいなのか、ドンドンと気持ちが落ち込み、厭世的になっていく。この部屋に入ってきたときが、一番楽観的だった。調書ができた。バイクが発見されても、所有権は放棄する事になった。ヘルメットを持っていることい気づき、ホテルに戻る。自転車が2台フロント横の廊下に移動している。なんだか、ほほえましい。部屋に上がり、いらなくなったもの置いてくる。

明日の空港行き列車の時間を調べに駅へ行く。ついでに、税関のおじさんに会いに行くが、彼は非番とのこと。3時に会う約束だったのに、来る気はないらしい。同僚に盗難の件を伝言し、別れる。盗難関連のフランス語にかなり強くなっているので、すらすらと状況がしゃべれる。小1時間、そればっかり話していたのだから当然ではある。

Solexを売った金で自分のお土産を買うつもりだったが、所持金も少ないので、チェスの駒だけ買うことにする。再び、リュクサンブール公園で、チェスを見るが、チェスクロックつきの勝負にこだわるゲームは気分が悪い。ドイツののんびりしたゲームが懐かしい。




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2008.08.18   パリ(+シャルトル)



8月17日
9時半起床。夜が遅いせいか、夜中に必ずトイレに行く。ビールの飲み過ぎだろう。橋見で疲れて直ぐに寝ていたドイツの健康的な旅と比べ、不夜城のパリは、11時くらいでも楽しいことがたくさんある。まさに、退廃の都(?)だ。Solex があるので、夜中にウロウロするだけでも面白い。風も心地よいし、どんな所でも平気だ。映画で何度も見た、うらぶれた風景や古いパリの町並みが見える。観光客の目では、見えない。何日いても回りきれない。

昨夜、旅行鞄を出し広げたまま寝てしまい、夜中に立った瞬間に、カバンの鍵の爪の所を踏んでしまい、足の裏を少し切った。薄暗い中で、足場を失い方向感覚がなくなったこと自体が、びっくりした。火事だったらパニックになっていたかもしれない。寝る前には、床に何も置かないようにしよう。いよいよ帰国の準備に入る。

遅い朝食を済ませて、郵便局へ。小さな分局なので、小包は本局へ。バイクでぶらぶら探す。行くべき橋がないので、気楽だ。午前中はできたばかりのポンピドーセンターへ行く。午後は汽車で郊外に行きたいが、ヴェルサイユの庭園にも行ってみたいが、シャルトルに決めた。Solexは町中では圧倒的な威力である。車より速く風を切って走る。センターを探しながらレ・アル界隈を進む。地図でも空白になっていて、再開発の真っ最中らしい。古いパリがまた一つ消えようとしている。

信号待ちをしている車の列をぬって5人の男達がバタバタと駆け抜けていった。はじめは喧嘩かと思って眺めていたら、後からお巡りさんが、歩きながら追っていった。ところが、3番目に逃げていた(と思っていた)男が、ジーンズからピストルを抜くと、前の2人に向かい何か叫んだ。初めての光景なので、現実の世界のことか映画の1シーンなのか区別が付かない。もちろん、周囲のフランス人も唖然としていたので、それほど日常茶飯事ではなさそうだ。

後の3人が私服刑事らしい。直ぐに手錠を掛け、車の中に押し込んだ。急いでシャッターを2回押した。今回の旅で、最大の出来事のように思えるので、もっと写真を撮っておけばと後悔する。それにしても、日本という国は安全なのだろう。こんなシーンは未だに見たことがない。やはり、ここは暗黒映画によく出てくるヨーロッパなのだ。

よけいな寄り道をして、ようやく正式名称「国立ジョルジュ・ポンピドー芸術文化センター」に着いた。大統領名の建物だが、土地の人はボブール(広場の名前)・センターと呼んでいる。確かに、凱旋門のあるところも、シャルル・ドゴール広場だが、ホテルの人もエトワール(星)広場という旧名を使っていた。入り口を見ると、夜の10時が閉館とのこと。大至急モンマルトル駅までSolexを飛ばし、シャルトルへ。駅で、スナック代わりに、オムレツとビール。ところが、このオムレツが、本当に卵10個くらい使った代物で、とにかくでかい。満腹の食後、地下で円のTCを両替。1分以内で両替完了。都会だし、その分僕は、観光客という記号になってしまう。

パリの南西約90kmのシャルトル駅は、予想より遙かに小さく、寒村の駅という佇まいである。広々とした平原の中に見え隠れしていた寺院は、駅の近くらしく、歩いて登ることにする。(感想後述)
4時43分発でパリに戻るしかないので、2時間で駅まで戻る。街をうろつきたいが、汽車の時間が気になり、カフェで休憩(ジュースを飲んでソーセージとパン)、よく食べる。行き当たりばったりの旅である。後学のために、小林版「正しい今日の過ごし方」をメモする。

7時起床。8時出発。8時半ヴェルサイユ着。12時食事後シャルトルへ。3時シャルトル発。4時パリ着。休息後、6時ポンピドーセンター見学、9時修了。食事後帰宅。完璧だ。

結局センターには4時間以上いた。楽しかった。




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2008.08.16   ロッテルダム・パリ



8月15日(晴れ)
急いでオランダを出たい。9時半ロッテルダム中央駅へ。2時過ぎパリ着なので、昼飯を用意しようと思うが、buffetで食事をしていないことに気づく。昼どきに食堂車へ。どの席も夫婦連れで埋まっている。一つだけ空いた席があった。そこへ座ると、直ぐに婦人が席を探しにやってきた。僕の方を一瞥し、さも嫌そうだ。再度、全体を見渡し空き席を探しているが、他にない。彼女は仕方なさそうに、「この席は空いていますか?」、「はい」。飯食べながら、おばさんと喋るのは苦痛なので、無言で行こう。

メニューは、スープ、サラダ、肉(2種類から一つ選ぶ)。飲み物は、僕がビール、婦人はグラスの赤ワイン。恐らく、40歳は越えているのだろ(外国の女性年齢は推定不可能)が、小綺麗な身なりで、大きな眼鏡が似合っている。食事が来るのを待っていると、まず、通関の検査員がやってきた。フランス語でその旨を全員に告げる。彼女は全く反応しない。パスポートが必要であることを、英語で教える。優しく微笑んで、Thank you。これを切っ掛けに会話が弾んだ(と言うか、彼女が一方的に話し、時々僕が質問する)。実に楽しい1時間半であった。それにしても、ナイフとフォークの使い方がエレガント。僕は、例のごとく、左手にパン右手にフォーク(フランス庶民の正調)。

彼女はオランダで働いている英国人で、出身地はハンバーの近く(当時世界最大の橋はそこにあった)。ハンバー橋は、彼女にとっても自慢らしく、必ず資料を送ってくれるとのことだった。夫はイギリスの会社に勤めていて、パリで合流し、遅いバカンスに出かけるらしい。息子はクラシックの指揮者になる勉強をしている。「将来日本でも公演があると良いですね」「是非に行きます」。別れ際に、彼女のオランダの勤務先の所在地をメモして貰う。僕は大学の住所を書く。快適な食事だった。英国も、もしかしたら良い所かもしれない。僕が誰かは、伝わっただろうか。好きなくともかなりの「橋好き」であることは伝わったはずだ。

北駅着。早速Solexを探しに行く。小荷物係に預かり証を私と、彼は僕を待たせて黒人の税関吏と何かひそひそ話している。いかにも網を張っていた相手が来たという感じ。赤軍派の残党がこのたりをうろついているという話も聞いた。オランダは麻薬なんかが結構自由に入るらしいので、出国の時は用心すべき、といった話も頭をよぎる。もしかしたら、大麻か爆弾がバイクのどこかに入っていたのかも。大柄な税関吏は、鋭い目つきで、僕の方に近づいてくる。凄い緊張が走る。

「このSolexはあなたのですか」「購入証明書は?」「国籍は?」と、矢継ぎ早の尋問が始まる。なんだか、逃げ出したい気持ちにある。できるだけ好青年のように振る舞っておいた方が良いような気もするので、できるだけ快活にテキパキと答える。「帰国の時には、これはどの様に処分するのか?」「???(なんだか話が変だ)」「どうせ売るのなら私に売ってくれないか。家内が買い物に出かけるにはこれが一番だからね」いいながら、バイクにまたがり、乗り心地を調べている。地獄に仏(ちがう、渡りに船)の心境。18日3時に、ここで会うことにする(値段交渉が大変だが、僕としては、ヘルメットやチェーンの鍵もつけて、プレゼントしようと思っている)。

あと数日、1分でももったいない。駅の近くの安ホテルに飛び込み、町に乗り出す。15日はフランスでも特別な日らしい(聖母昇天祭Assomptionとのこと)。つまり、デパートも本屋も全部閉まっている。行くところがないので、リュクサンブール公園へ。この時期、ここもお上りさんのメッカなので、今まで訪ねた公園のように、静かに時を過ごすという風情がない。裏口から出て、シャーイヨー宮まで行く。夕日に映えるエッフェル塔が美しい。

郊外に出るが、夜道を適当にうろつき、凱旋門のロータリを3周して帰る(下手に内側にバイクで入ると外に出られなくなる)。きっと外側を少しずつ回るのが正解なのであろう。食事がすっかりドイツ風で、ソーセージにビール大。特大のジョッキが来て全部の飲めずにホテルに帰る。狭い間口のホテルなので、バイクを置くスペースがない。玄関脇に、外灯があるので、それに巻いておくことにする。これだけ明るければ、取られることはないだろう。




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2008.08.15   アムステルダム・ロッテルダム



8月14日(曇り)
午前中移動。Solex はすでにパリに送った。ホテルに入り、荷物を広げ、鏡を見る。髭も伸びているが、髪も目立ち始め、白髪がやけに気になる。少し抜いたりしていたら、1時間経っている。有線放送かラジオの曲がどこからか、流れ続けている。知らない曲ばかりだったので気にしていなかったら、 On the beach が聞こえてきた。秋のような陽気が続いていたので、忘れていたが、今は夏の盛りだ。真夏の海岸を思い出して、元気が出る。

目指す斜張橋のある場所を、フロントで確認。40km以上ある。この時期郊外行きのバスは本数が極端に減っている(10分なら行く勝ちはありそうだが、一日仕事にする程の橋ではない)。タクシーは考えもしなかった。いっぺんにやる気をなくす(賢明な即断ともいえる)。町を歩く。

港をぶらついていると、観光船が出ているのに気づき、乗る。船上より、見慣れたライン河のキロ程(水源からの距離?)、1001を発見(ローレライの岩が確か555であった)。ここが終点であることを知り、感慨ひとしお。7月30日にストラスブールから始まったラインの旅の終わりである。

夕方、入ったレストランが、これまた魚料理の専門店で、目をつぶって頼んだ料理は、3種類の魚のフライ(ミックス・フライ)、お腹だけ満たすが、少し足りない。朝方、音楽が流れてきたpubの様な店があったので入る。いわゆるオープンな居酒屋(フランスやスペインのカフェ)ではなく、ドアーの向こうにカウンターがあり、奥にビリアードの台がある。テーブル席もあり、ジューク・ボックスから楽しげな曲が流れている。女性客は少ない。

若い男が近づいてきて、ビリヤードをしようと英語で誘う。学生時代に2,3回やっただけなので、「できない」と断ると、「なら教えてやる」と言うことになり、四ッ玉を30分ほどやる。下手なので、酔客が、色々と口を出す。若い男が僕のことはそっちのけで、彼らと渡りあう。彼は無口で神経質なタイプなのだろう。港町の駅裏の酒の飲めるゲーム場が、明るく健全な場所だとは思わないが、周囲全体が何となく病んだ感じがする。大体、僕とビリヤードがしたいということ自体が変だ。そんな暇があったら女の子を探す方がずっと健康的だ。そうか僕自身が、健康的でないということか。


それでも、やはり、ラテンの国とゲルマンの国は違うと思った。あの年の天候のせいもあるかもしれない。陰鬱な北と明るい南。だから、みんな地中海を目指して南下してくるのだろう。これほど物資が豊富にあり、何でも食べられるのに、ドイツ人の食生活はドイツ風だし、オランダ人はオランダ風なのだ。旨いものをもっと食べればいいと思うし、ワインとかドンドン出してくれればいいのだが、なんか、飲む気になれない。ま、大好きなビールがうまい所なので、それはそれで不満はない。

事前調査で、オランダには、斜張橋が2,3あった。そのために最後にオランダに行くことになったが、2日間は結局、見聞を広めることに終始した。そうと判っていれば、絶対にベルギーに行ったはずだ。ジャック・ブレルがいて、バルバラも一時いたのはブリュッセルなので、行きたいと思っていた。ところが、この時点では、パリに帰ることしか考えていなかった。やはり、パリはどの町と比べても群をに抜いてすばらしいと思った。

On the beach という曲は The Beach Boys の曲だと思っていたが、記憶違いかもしれない。はじめは、邦題で「渚にて」と呼んでいたが、同名で全く関係ない映画(このほうが有名だった)とまぎらわしかった。いつからか原題で呼ぶようになった。この辺りの事を知っている人は教えてください。ついでに、チャド・ミッチェル・トリオの「ジョニーが凱旋するとき」は、古い民謡らしいが、反戦歌の白眉。彼らの歌も絶唱といえる。30年ぶりに聞く方法はないのだろうか。


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