空間情報デザイン研究室
空間情報デザイン研究室 小林一郎
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2008.07.26   トゥールーズ・バルセロナ


7月25日(晴れ)
7時28分の列車で、ナルボンヌ経由で、ポルト=ボーへ。ここで、国境通過(日本人はパスポートの表だけでOK。帰国後に旅程の検査があるらしいが、検印がないとひと悶着あるかもしれないが、彼らが検印しなかったんだから仕方がない)。テロが相次いでいるので、むしろヨーロッパ人の検査が厳しい。14時05分着。今日も半日汽車の中。

自分でも、「夜行に乗るべきではないか」と思わないでもないが、@盗難のことを考えると寝つかれないのでは、A夕方は、レストランでのんびりしたい、Bやはり、日本人は夜フロに入るべき。と、様々な理由をつけつつも、昼間の車窓風景を楽しむ。車中の会話もフランスでは何とか、なりつつあるので、面白い。

さすがにバルセロナは南国だ。駅裏にでたのか、細い路地の入り組んだスラム街風の場所に出る。カバンの車が、石畳で音を立てるので、皆が振り合える。よっぽど珍しいのだろう。ようやくホテルを見つけるが、フランス語が通じない。単語のみのスペイン語では無理。仕方なくい怪しげな英語で何とか用を足す。初めてクーラー附きの部屋。ただし、シャワーさへない。タオルを濡らし全身を拭く。ビデがないので、イスを持ってきて洗面槽に水を張り片足ずつ突っ込んで石けんで洗う。窓から覗くと、滑稽な姿だろう。

近くにY路の道路を越える歩道の斜張橋があるらしい。当然この橋も3方向からアクセスできる。
ところが、フロントで英語で聞いてもまるで通じない。迂闊なことに資料を全く持ってこなかった。ガイドブックも独仏2冊のみ。全く情報がない。準備がいかに大切か、今頃反省している自分自身が腹立たしい。町も、フランスと比べるとガザガザして落ち着きがない。そのこと自体が僕の落ち着きのなさを倍増させる。両替もしないといけない。気軽に国を移動してはならないのだ。橋は何処にあるんだろう。


まだ、ECなどなかった頃。ちょっと国境を越えるというのは旅行者には大変な事であった。後年家族旅行中に、フランス・スイス国境を車で、一日に6回越えたことがある。この場、言葉は同じ通貨が異なるのみであるが、TVの番組が違っていたり、車フロントガラスの納税スタンプの張り方が違っていたり、どことなく居心地が悪いものだ。

仏・西を汽車で越えるのは、「どことなく」どころではない。まず、鉄路のゲージが違うので、基本的には乗り換えとなる。みんなでぞろぞろ歩くので、国を越えているという実感が湧いた。新八代駅で、乗り換えるとき、いつもスペインを思うのはさすがに私一人だろう。

当時は町中も、騎馬警察がいたり、軍隊が小銃をもって歩いていたり。臨戦態勢という雰囲気だった。当然両替もいる。言葉も通じない。特に、安い旅館を探すためには、現地語ができなと話にならない。大げさに言えば、「ホテルの値段は、英語を基準にして、日本語だけのときは倍。現地語なら半分」というのが、小林の法則。いずれにしても、2,3泊の旅行でフランスからスペインへ行くのは避けた方が良い。


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2008.07.25   ナント・トゥールーズ



7月24日(晴れ)
4時30分起床。中学時代、部活の遠征で、暗いうちに家を出たのを思いだす。昨晩支払いを済ませると、鍵は壁のkeyboxに掛けてかけておけとのこと。吐く息は白い。各ホテルのフロントだけがホンノリと明るく、町はまだ眠っている。さすがに、駅だけは賑やか。眠そうな旅行客、疲れた様子の駅員、それぞれに目的を持って動いている。昨夜の食べ残しのパンと朝食で貰ったらジャムを取り出し、カフェを注文。

6時発のニース行きに乗車。ローカル線なので超特急がない。Expressというのは、鈍行よりややまし、あるいは、停車駅が少ない汽車。コンパートメントの座席も叩けば、埃が天井まで舞い上がりそうである。東京同様、パリを中心にした各都市にはTEEという新幹線並の汽車が走るが、ナント・トゥールーズ・マルセーユ・ニース(まさにフランスの外環状線)となると、便数も少なく、時間がかかる。今日の移動時間は8時間。

8人掛けの席は次々と人が入れ変わる。昼前には、農民風の老夫婦と対座する。バスケットからいきなり、Opinel(折りたたみ式ナイフ)を取り出す。一瞬僕だけ緊張すると、おもむろに、バゲットを切り、おばあさんに渡す。チーズがおかず。樽から出してきた、瓶詰めのワインも飲み始める。僕にも飲むか合図、空きっ腹に赤はないので固辞。リンゴを取り出し、昼食にする。彼らの発音はスペイン風、Tres bienは「トレビエン」。とりとめのない話をし、それなりに楽しく時がたつ。

いよいよ、パリとは違う文化圏に入った気がする。壁は白く、屋根は赤い。木々や門の緑が本当に良く合う。僕のイメージの中の地中海である。日差しも夏。いよいよジャンバー不要の世界に来た。
2時トゥールーズ着。ここは一泊なので、駅前の高そうなホテルに泊まる。名前からしてヴィクトリア・ホテル(実は3★Nで、50F)。

早速、Solex がサン=ミッシェル橋を探す。期待していたほどの橋でもない。河畔が公園になっていて、散歩する人、本を読む人(ほんとに多い)、釣り人、ぼんやりパンを食べる人、各人各様の夏を楽しんでいる。うらやましい程に静かで溢れる緑や気持ちが良い。夕方、植物園に出かけるが、ナントの公園ほど綺麗に整備されてはいない。子供も少なく、賑わいがない。2つの公園を結ぶ歩道橋には溢れんばかりに花が植えられ、可愛らしい。

8時過ぎ、駅前通りを歩いていると、派手な服を着た相撲取りのような女性が近づいてくる(フェリーニが大好きなタイプ)。遊んできませんかといっているらしい。これがまた、聞き取りにくい。南国の夕方は艶めかしくも華やかではある。9時から10時まで、旅行者用の食堂にはいる。メニューのセット料理名がドン・キホーテとかマルコポーロになっている。これは避けて、オニオンスープ、ピラフ、ロゼ1/4、ビール。酩酊の日々。いよいよ明日は初めて陸続きで国境を越える。


中学生の頃は1年の夏まで柔道部。中体連の新人戦で準優勝をしたら、途端に先輩が生意気になったので、辞めた。直後にサッカー部に入ったが、いきなり夏の合宿で、炎天下死にそうになり、療養中のまま足が遠のいた。その後は完璧な帰宅部。町の中をウロチョロする日々であった。映画にはよく行った。

「今の学生はほんとにモノを知らない」とついつい言ってしまうのだが、構力講座出身で、橋梁研(当時は土木構造と呼んでいたが)の助手である私は、フレシネが誰かも知らなかったし、サン=ミッシェル橋には何の関心もなく、下流の立派な石橋(ポン=ヌフ)に少し心が動いた程度。その後このPC橋の来歴に関する論文を書いたのは、多分にフレシネ先生へのお詫びの意味が含まれていたように思う。

Opinelも誰か調べてみてください。小指程度の握り(小林所有は果物用)から、本格折りたたみまで、各種ある。フランス人は、結構これを持ち歩いている。コット先生と話しているとき、「私も持ってるよ。護身用だ」といってズボンのポケットから出した。ミディ運河の見学に行ったとき、素堀のトンネルの岩がいかにも脆そうなので、財布からコンンを出して削ろうとしたら、同行してくれた技術者が、さっとOpinelをだして、壁面を削った。いろんな事に使えるので便利な小道具だが、日本人はヒドイ使い方しかしないのが残念。


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2008.07.24   ナント・サン=ナザール・ナント



7月23日(晴れ)
8時起床。9時30分の汽車でサン=ナザールへ。4両編成のローカル線。田園風景の中に、ポツ、ポツと工場が見えてくる。そもそもこんな田舎町に世界最大の斜張橋があるのは、ロワール河口のこの一体が造船関連の工業地帯だからである。到着すると、「あつもの」に懲りているので、窓口でまず、帰りの時間を確認。ナント行きは、12時と16時1分。今日が日曜日なのを電卓で確認。

汽車からも、橋はちらりと見えていた。中央支間404m。巨大だ。Solex を持ってこなかったのを後悔するが、方向だけは判っているので歩く。道は心配なので、高速道の脇を進む。アプローチ部は大きくカーブして橋に接近するので、橋がドンドン遠ざかる。橋の入り口に着いたときにはいい加減うんざりしていた。10分ほど河口を眺め、中央まで歩くが、対岸まで行くのはあきらめる。

この橋は悲惨である。逆V字の2本の主塔は赤白に塗られている。近くに空港があるからだ。遠目にも、近からでも醜い。こんな世界一はもう良いと思った。一人のフランス人が近寄ってきて、「なぜ写真を撮っているのか」尋ねるので事情を話すと「ボスポラス海峡の橋は日本がかけているらしいが、全くすばらしい」とかなりの通。しかし僕の記憶では、その橋はイギリスの橋で、日本のは付帯工事の小さな方だと思う。が、弁解するほど詳細なフランス語表現は出来ないので、とにかくお互いに相手の国の技術を誉めあい、気分良く別れた。

一応、桁下も見ておきたいので、引っ返す。遠浅の砂場で足を取られ、ゼーゼー言いながら橋の下までたどり着く。2台のカメラが重い。写し終えるとその場にしゃがみ込む。服は汗でビショビショだ。すでに、12時は回っている。とにかく、工場の敷地を横切って駅まで帰るしかない。1時過ぎ駅へ。残り3時間をどう潰すか。レストランにはいるがエスカロップの文字がない。仕方なく、ステーキを注文。生肉に3,4本の焦げ目の付いた肉が来る。直ぐに冷たくなり、刺身状態だが、血だらけなので、5分の1は残す(5分の4は食ったのが凄いともいえる)。

時間があったので、町の中を歩く。一本の道路を挟んで、ブティックが軒を並べているだけであるが、それぞれのウインドーは、個性的な工夫で飾られていて、見ていて楽しい。もっとも、日曜日は町が死んだように静かである。

5時ナント着。シャワーを浴び、着替えると再び元気が出てくる。近くを歩き、教会に入る。ちょうど夕方のミサが始まったところだった。有名な教会らしく、観光客も多い。子連れの人も見かけるが、ここの子供達は本当に静かである。改装工事中の正面ステンドグラスが興ざめであるが、荘厳な雰囲気はすばらしい。再び、公園をのぞきに行くと、いきなり、若い女性が「1フランくれ」と寄ってくる。パリでもジプシーが観光客にしつこくつきまとっていた。これには閉口する。

8時から9時過ぎまで夕食。固ゆで卵のマヨネースつき。ソーセージ、エスカロップ(牛)、ロゼ・ワイン、モモ、コーヒー。明らかに食べ過ぎ。ただし、食べながら飲むので、あまり酔わない。部屋に戻り、カバンの整理をし、フロから上がると、すっかり酔いも覚めた。再び服を着て、カフェに出かけ、ビールを飲みつつ葉書を書く。通りを観察するのは楽しい。ほぼ入眠儀式となっている。明日は早いので、11時には寝ることにする。


教会は、サン=ピエール・サン=ポール教会。ナントで一番有名であるが、トロワ同様、パリのノートルダムとは比べものにならない。良いものを良いと理解するには、普通のモノやそれ以下のものを知っておく必要がありそうだ。その上で、最高の大聖堂もみたいと思った。その後趣味の一つとなった大聖堂巡りのスタートはこの辺りからのように思う。そして、時々見かける石の橋にも興味が湧いてきたが、この時点では寺院が一番。

もう一つ、大変興味を持ったのは、どんな町にもある対独戦勝記念碑である。もちろん第一次対戦のもので、村や街区から出征し戦死した人の名前が刻んである。石の新しいところは、第2次対戦分がほんの少し追記されている。Solexで虫のようにはい回ったせいか、良く目にした。その後、車で動くようになってから、よっぽどの田舎に行かないと目に付かないように思う。最近はなくなったのだろうか。

この時点でも、エスカロップは謎、豚肉を薄くして焼いたもの、ショウガ焼き風の牛肉。トンカツ風のものもある。鶏肉に至っては、不可解であるが、帰納法的に類推し、肉の名前ではなく、料理の仕方(肉を焼く)か、肉の切り方(平たく切る)ではないかと思うのだが不明。要するに当面これを注文すればいいと結論だけが重要。


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2008.07.23   トゥール・ナント



7月22日(晴れ)
早く目が覚めたが、2度寝。汽車は次のにすると決めたので、ダメージはない。郵便局に寄るが、5分で済むという訳には行かない。フランス流とはこういう事だと自分に言い聞かせる。自分が観光地で育ったせいか、この町も客からの金で生きている割には「おもてなし」を感じさてない。早めに駅に入り、新聞を読んで時間をつぶす。

4時過ぎ、ナント着。快晴、暑い。初めて夏だと思う。この町だけは雨で迎えて欲しかった(ナント紀行参照のこと)。駅前には、4つ★以上のホテルが並んでいる。少し裏手を探して、一つ★に泊まる。2日間で96F(パリの1日分と同じ)、とにかく安い。おまけにバスまで付いているが、4階まで、歩いて登らないといけない。旅行鞄を担ぎ、初めて額に汗。早速、Solex で川沿いを走るが、大した橋もない。道路沿いの花壇が、赤や黄色の花で飾られ目立つ。

美術館に寄る「海辺の妖精」の絵に感動。その他はそれ程凄いとは思わなかったが、建物自体が立派。駅前の公園にも入ってみる。美しい。植物園という方が正しいのだろうか、ベンチでボンヤリとスモモを食べる。日中の暖かさは、日本の初夏といえばいいだろうか。日差しはかなり強いのだが、木陰や夜の風は本当にヒンヤリしている。無理に町を回るのも疲れるので、今日はこのままSolexを駅に持って行って、次の駅に送り、夕食を取ることにする。

食事の時にワインを飲むと、後で何かあると大変なので、飲まないことにした。魚のスープ、エスカロップ、サラダにコーヒー。スープの横に一皿山盛りのクルトン(?)がのっているが、これを総てスープの中に入れるべきが、少し逡巡し、入れる。エスカロップは豚。

ホテルに帰り、フロにはいる。明日の準備をし、サンダル履きのまま、近くのカフェまでいって、ドゥミを2杯飲みつつ、葉書を2枚書き、簡単な今日の行程をメモ。風は爽快で、町ゆく人もカップルばかりなので、絵になる。のんびりした良い一日だった。雨が降っていれば申し分なし。


この時は、「何となく好印象の町」であった。29年後50日暮らして、大好きな町になる。城も展示に工夫がある。交通体系もすばらしい。大学がたくさんあるので、若い人に活気がある。海外貿易で栄えたところなので、市民の独立心が旺盛(ここが熊本と違う?)。ナント大の友人に質問したら「見識のある政治家。優秀な官僚。情熱溢れた商工会の役員。要するに、実行力のある若手が何人かいるからね」。たった「何人か」で本当にこうなるのだろうか。

トイレがほとんどない。ホテルできちんと用を足す。橋についたら必ずマーキングする。これが日常化した。さらに、昼はレストランにはいると時間がかかるので、原則行かない。リンゴ、バナナ、桃、スモモ等を事前に買って昼間に食べる。疲れたら、教会か公園で休む。特に教会は、涼しく静かで、心が安らぐ。考え事には最適。公園は、門があるので、そこまで行くのが案外面倒くさいが、中はすばらし。これが無料で散歩できるのは、うらやましい。今度パリに戻ったら是非、リュクサンブール公園に行ってみたい(というか、まだ、パリはほとんど何処にも行っていない)。


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2008.07.22   ルーアン・パリ・トゥール



7月21日(晴れ)
8時起床。ホテルで朝食。午前中パリ移動。サン=ラザール駅着(東駅やモンパルナス駅と比べると貧弱)。近くの郵便局で、葉書2枚投函。Solex はすでに、ナントに送った。14時-16時でトゥール着。ユーレイルパスがあるので汽車の移動は快適。予想はしていたが、ロワール河のお城めぐリの基地なので、観光客でごった返している。観光案内を横目で見ると、夕方「光と音のショー」が城であるらしい。せめて、これでも見ることにしよう。

小綺麗な婦人服の売り子さんに、道を尋ねたら、頭の禿げ上がった店主が得てきて、「構わず仕事しろ」。確かに、紳士服店ならそんな扱いは受けなかったかもしれないが、道を尋ねるときは、絶対男には聞かない主義なので、仕方がない。それにしても、客ずれしているというか、全く不親切。昨日の今日なので、不愉快。石畳の町を、旅行鞄を押しながら、30分かけてホテルを探す。Hotel de France名前はずいぶん立派だが、二つ星(★★N)なので安いクラスなのだが、それでも80F。観光地は好きになれない。

昨日の寒さに懲りて、デパートで薄手のジャンバーを買う。真夏の買い物ではないが、それを来て歩くとちょうど良い。その他、本を6冊、リンゴジュース(1リットル)1本。8時までホテルで休憩し、小包を一つ作り、買った物や下着の一部を詰める。この所洗濯をしていないので、靴下、下着の類を洗う。面倒なので、下着や靴下を着たまま風呂に入り、体を洗うようにする。後は脱いで絞れば、翌朝にはほぼ乾いている。汗も出ないし、この先、人に会う予定もないので、これで十分。

8時過ぎに、夕食に出る。ツアーは9時半らしいので、時間は十分。エスカロップは直ぐにできるので、注文。ところが客が多いせいか、40分くらいして持って代物は、明らかに姿が異なる。一応確認したが、エスカロップらしい。首のない鶏一匹の丸焼き。トマトベースに野菜が混ざったソースがのっている。味は良い。半分残せばいいのだが、意地になって平らげる。途中から、観光は止めにした。2日ぶりのビールも回りが早い。


まだ、ここに有名な石橋のあることを私は知らない。絵はがきで見たシュノンソー城が、橋の上に建物が建ってある事には興味を持ったが、それも特段印象には残っていない。単に、ロワール地方に行ったというためだけに泊まった町だ。おそらく疲れも出ていたのだろ。10時にホテルで、ガイド本を読み明日のナントの予習をしていた。

「必然」
この旅行を通して、ヨーロッパの最新橋梁を見聞し、大いに刺激を受けたが、我ながら、どこに感激したのかの説明が上手くできなかった。最近、宮崎の橋の景観検討委員会で、考えていて結局言いたかったことは、「必然性のない設計」ということだ。必然性のある好例として、瞬時に思ったのは、この旅行で見たいくつかの斜張橋である。

場所の必然、構造の必然、材料の、施工の、用途の、・・・。いろんな必然の考察の結果として、ヨーロッパの橋はその場所に姿を現す。姿は深い考察の一端の披瀝に過ぎない。従って、そこを訪れて、様々な必然を読み解けば(もちろん資料を読んでようやく理解できることもある)、自ずから、設計者の意図は理解できる。

一方、今日においても、日本の橋の多くは、「必然の積み重ね」とは違うところで、意志決定がなされる。これは悲しい事だと思う。

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2008.07.21   ルーアン・ル=アーブル



7月20日(小雨) 《その1》
7起床。また鼻血。食欲もなく、2度寝。10時過ぎ出発。空が黒い。北仏ノルマンディーはいつもこうなのだろうか。昨晩オーナーの息子がフロントで受付をしていた。「郊外にでるなら、Solexでも、ヘルメットは義務(Obiligatoire)だ」といった。この単語は、こんな場面で使うのかと感心する(確かに頭の上に電球がついた)。早速、どんどん使いたい。バイクで周囲のバイク屋をハシゴし「それ義務ですか」と聞く、当然Ouiなので購入。

雨が降り出す。旅行用の簡易ビニール合羽を着て北上。糸引く雨が断続的に続く。寒い。持ってきたTシャツの上に、半袖のポロシャツ、その上に長袖のカッターシャツを重ねる。手はかじかんでいる。鼻水が出てきたので、またかと思ったら、今度は赤くないので安心する。そん自分がバカではないかと思うのだが、大きな不幸より、小さな不幸に出会う方が何倍も幸せだ。そう思うのは大事。バイクのエンジンを切ってペダルを漕いだり、片手運転で、空いている手に、息を吐きかけたりして進む。時として、声を出して歌う。遭難中の登山者の心境(?)

タンカビル橋(吊橋)までは80kmくらいのはずだ。半分を過ぎた頃だろうか、薄墨色の空にコツ然と、優雅で繊細な斜張橋が姿を現す。「アッ!」と大声で叫んだ。確かこれは建設中のはず。開通前なのか?バイクで3往復し、写真を撮る。斜張橋というのは、これほど美しいモノなのかと驚嘆する。橋台付近で用を足し、リンゴを囓り、呆けたように金色のケーブル群を束ねた塔を眺める。自分の知らない広い世界があるのだと思った。大げさでなく、衝撃的な出会いだった。

その後、有料のタンカビルを往復したが、どうでも良かった。雨は上がったが、強烈な海風の中、必死でル=アーブルまで進む。途中道を間違えたりして、3時間の予定が、6時間。町の見学はあきらめ、まずは、歩道の斜張橋を探し写真。次に駅を探し、レストランに入る。まだ、早いので客は、2.3人。ワインを注文し、スープ、サラダ、エスカロップ(今度は牛肉)。満腹満足。あとは、ホテルで寝るだけ。Solexを処分(ナントへ直送)。ゆったりと最終列車を待つ。



そのときまでは、本当に幸せな1日だった。ここまででも十分記憶に残る「この日」だった。ブロトンヌの価値は、PC 斜張橋で、当時世界一のスパンを実現したことにある。その後の、フランスの斜張橋建設が世界に飛び出した実質的な嚆矢だ。しかもその優雅な姿は、ミヨウ高架橋を先取りしている。私が、フランスの橋の歴史を辿ってみたいと思ったのは、まさに「この日」だった。

フランスの駅は、日本の空港のように出発と到着のダイヤがすべて掲示されている。注意しなければならないのは、日曜と平日のダイヤが併記されていることだ。ちょっと慣れれば、問題がない。日曜日は、皆、遠出をするので、最終便が平日より、1,2時間遅い。なれれば、問題はない。が、「この日」私は、日曜日でもないのに、日曜日の最終に乗るつもりになっていた。



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2008.07.21   ル=アーブル・ルーアン



7月20日(曇り) 《その2》
終電の時間が近づいても、人影がない。駅員も見あたらない。時刻表を再確認すると。すでに平日最終便は出ている。間違える人はいないはずと自分でも思っていただけに、ショックは大きい。酔っぱらっているので、バイクと言うわけにも行かない。近くの人にルーアン行きのバス停を聞く。10分くらい歩けばいいらしい。ヘルメットとバッグをもって走る。しかし、ここでも、最終はすでに出ていた。

9時過ぎ。総ての公共交通が9時には止まる。こんな社会があることに驚く。田舎は車がないとどうにもならないのだ。「車?!」そうか、ヒッチハイク!町のはずれで、車がスピードを上げ始める場所なので、ほとんど誰も見ていない。30分以上は待った。60過ぎのおじいさんが、小さな車を運転している。後部座席には自分より大きな犬が静かに座っている。

とにかく、犬の席を少し分けてもらって小さくなって座る。陽気な老人で、早口で冗談を言い、自分で面白そうに笑う。いつもそうやっているのだろう。彼にとっては、犬が一匹増えただけなのだ。またく、聞き取れないフランス語である。10分もすると、急に止まり、「この先曲がると我が家だから、ここで降ろすよ。一番良い場所だ!」

フランス語の慣用表現で「猫一匹」いない野っ原の三叉路に取り残された。あのじいさんに、「金払うから泊めて」と言うべきだったと後悔しつつ、野宿はできるのだろうかと気をもむ。三つの道はルーアン、ル=アーブル、そしてイフトー(昼間間違えて行きかけた町)。3つの町の位置関係は地図で判っている。つまりまだ、ル=アーブルをちょっと出たところだ。

ヘルメットと左手に抱き、右肩にバックを提げて、通り過ぎる車に、「ルーアン!」と叫ぶ。Rの発音が難しいが、それを大声で連呼するのだから、最高の語学練習だ。3台位続けて”Oooui!”と答えてて遠ざかった。さすがの僕でも、小考。ヘルメット抱えて、こんな事叫ぶのは、バイク野郎が道を尋ねているということなのではないか?そういえば”Adoro(大好き)”は馬鹿にしているのではなく、A droit(まっすぐ行け!)”ということかもしれない。また、電気がついた!おもむろに、ヘルメットを置き。両手を広げつつ、再連呼。

20分は経過しただろう。子供を2人連れたおばさんが、乗せてくれた。「ルーアンの手前までだけど、そこまで行けば、大丈夫」彼女も話し好き。ノルマンディ地方の話、ブロトンヌ橋が出来て便利になるということ、この地方特有の民家の話、息子の一人がケンドーをしていること(ジュドーも大人気らしい)。ふと空を見ると深い蒼のなかにピンクと真っ赤の中間くらいのまん丸な月が出ている。「luna rossaというシャンソンは本当なのですね」と尋ねる。別に毎日のことなので、彼らに感動はない。水平線の向こうにバラ色の月。印象派の絵は空想なのではなく、全くの写実ではないかと思った。帰国後絵はがきを送ることを約束し、宛先をメモし下車。

今度は、高速道路の真ん中だ。辺りは真っ暗。外灯のオレンジ色だけが頼り。待つことしばし。今度は若いアベック(判る?)なのだが、全く無口。ラジオからは陽気な曲が流れるが、総てが沈んでいく。10分もするとルーアンへ。「どこまで行く」と男性。駅までと答えると、女性が「送っていってあげれば?」と促す(二人の会話は早すぎてついて行けないので、これの訳は脚色)。「是非よろしく」とお願いし、ホテルの前で、降ろしてもらう(これらは事実)。12時少し前、無事帰還。


酒はすっかり冷めてた。そんな時は案外寝つき悪い。本当に予期せぬ長い一日だった。この旅行中で、最も印象深い一日はこの日かもしれない(とあのときは思ったのだが・・)。田舎の人は親切だし、会っていて楽しい。

現在まで、ブロトンヌには何回行っただろうか。家族を連れて町に泊まったこともある。その時は、次男と3男の頭にシラミがいることを発見し、薬屋に走ったりした。早目の夕食に入ったカフェの調理が不味く、みんな不機嫌だった。私の最初の旅行の思い出も、この地が私の聖地であることも、彼らに話す機会さえ見つけられなかった。

永井荷風が初めて見たフランスはル=アーブルだった。港湾都市なので、見るべきものは色々あるらしい(世界遺産がある)。しかし、結局私は、未だにこの町を尋ねてはいない。

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2008.07.20   パリ・ルーアン



7月19日(曇り)
東駅のすぐ脇の郵便局でboit(小包用小型段ボール箱)を2個。1個はその場で組み立て、床に本や雑誌を出し広げ詰める。日本人の評判を下げる程の行為でもないだろう。発送完了。10時45分ディエップ行きでルーアンへ。初めてコンパートメントではないビジネス用(つまり日本式)の車両に乗る。人がザワザワしていることが、何か落ち着く。

ルーアン駅でまずは、昼食。シタビラメのムニエル(たまたま覚えていた料理名)を注文、小一時間待って、食事に有りつく。その間、ドゥミを2杯飲みながらじっくり人物観察。日本人とフランス語が喋れないデカイ外人だけがそそくさと、食べ物を詰め込んで出て行く。ボーイさんの動きの凛々しさには職人の気品を感じる。女性でもよく働く。日本のバイトの女の子と比べると、明らかに別の職能だと思う。

目の前のジョン・デンバーそっくりのカントリーボーイが、「ソーシス・フリット(ポテト付きのソセージ。また一つ名前を覚えた。)を注文。確かに昼はこれで良い。彼は、料理とパン(無料、2回お代わり)を食べ尽くし、料金をきっちりテーブルにおいて出て行った(この間6分50秒)。イライラしながらボーイが来るのを待つ様子、キッチリとお金を並べる仕草、決然と席を立つ姿。すべてが、アメリカの喜劇映画を見ているようで笑ってしまった。フランスのレストランやカフェは本当に楽しい場所だ。

いざホテル探しと張り切って、外に出ると、鼻水がで始めたので、ハンカチで思いっきりかむ。真っ赤。確かに、ずっと飲み続けている。当面自重。駅近くのホテルに宿泊(通りの名前がジャンヌ=ダルク)。1泊が63F(フシエェールの旅籠は3日間で60F )。小休止の後、Solex を取りに行く。バイクを押しながら、スタンドを探し、満タン(といっても1リットル)。この町はジャンヌ=ダルクが処刑された場所。作家コルネーユの出身地でもある。両方の名前を冠した橋がある。特に、後者は、鋼桁橋であるが、デザイン上の工夫が幾つかあり、感心する。フランスの橋、対話が可能だ。こちらが聞く耳を、見る目を持とうとすれば、色んなことを教えてくれる。時の立つのを忘れてしまう。

先ほどのスタンドで「遠出するにはbidon(補助的にガソリンを入れておく缶)を用意したほうが良い」と言われた。無理矢理買わされるのもシャクだと思ったが、明日はいよいよ、タンカビル橋見学。となると、気になるので、買いに行く。後輪の横に金具を付け、そこに2リットル入りの四角い缶を取り付ける。器具6F(300)円、手間賃2F(100円)。


田舎で過ごしたことは大きかった。あるいは、3泊でもフランスの家族と親密に話が出来たからだろうか。その後の旅にはどこか余裕があった。出来ないもの出来ないし、嫌なモノは嫌なのだから、それをハッキリと相手に伝えることは重要だ。言葉はそのためにある。心から伝えたい、本当に判りたい、と思うと案外理解できている。いい加減に耳だけで済まそうとすると必ず失敗する。

語学の話ではない。「気づき」と「応対」のことだ。センスが悪くて「気づかない」人間もいるが、大体の人は「気づく」。大事なのは、その後の「応対」という行動だ。すぐ行動すべきか、じっくり考えて動くべきかといった判断は難しいが、「彼は賢い」と僕が思う人は、皆、何らかの結果を行動として残す。その意味では、小さなことでも、ある時点で断固とした行動に結びつけるべきだ。あの時期、そんなことをボンヤリと考えていた。

地形を理解しろとか、歴史を読めと言われても、良くは判らない。しかし「橋が何となく、良いな」と思うとき、周りをうろつき、自分がその「何となく」の理由に気づくしかない。この旅行が終わって、「気づいた」ときその場所から証拠写真を撮っておくべきだったと後悔した。結局そのように写真を撮ると言うことが、私が「特異点探索」にこだわる端緒だった。


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2008.07.19   トロワ・パリ



7月18日(晴れ)
7時30分起床。旅籠の勘定をしようとしたら、すでに支払いは済んでいるとのこと。彼女がやって来たので、その話をすると、自宅が狭くて申し訳ないと謝られる。大きな借りができたが、彼らの親切に甘えることにする。感謝。

8時10分駅へ。多少早く着いたので、予定より一つ前の急行に間に合うとのこと。駅員が急ぐように促す。僕は、彼女に言いたいことがあったので、早く来たのだが、何となく彼女も急ぐので、ついつい汽車に乗ってしまう。「ありがとう(Merci beaucoup)」を3度、さらに「ありがとう(Vous etes tres gentille)」を言い終わらないうちに、出発。[だから昨日の夜、ゆっくり話せば良かった]いや[汽車を一本遅らせれば良かったんだ][もう一度引っ返せばいい]などと愚にもつかぬ事を思い悩むが、結局何もせず、ボンヤリと佇んでいた。[帰国して長い手紙を書こう]。

昼前には再び、パリ東駅へ。駅の近くの小綺麗なホテルに宿を取る。やや高いが移動するのが面倒。早速、バスチーユへ出て、中古のSolex を探す。店が閉まっていたり、あいにく新車しかなかったり。最初のホテル(エッフェル塔の近く)の傍にバイク屋があるのを思い出す。新車しかないので、買う事にし、地下鉄の高架の下で、使い方を教えてもらう。練習を兼ねて、パリの中を走り回る。『ローマの休日』の気分。

夕方になり北駅で、次の目的地ルーアンにSolexを送る方法を聞く。「それなら、モンパルナス」とのこと。市内を横切り、近代的な駅に着く。発送係に「ルーアンに送ってください!」と言う。ギャング映画に出てきそうなおじさんが、低い声で「なに?ルーアン?サン=ラザールへ行け」。バイクに乗るのが楽しいので、許せるが、本来なら捨て台詞一つも言いたい。が、そういうフランス語は勉強していない。まず、腹ごしらえ。エスカロップで晩飯(ワインが飲みたいが我慢)。

途中ガソリンが切れ、ヨタヨタと走りながら駅へ。自転車ほど動きが良くない。人影まばらな構内でやっと、発送完了。帰ろうとしたら、すらっと背の高い黒人紳士が、英語で駅員に尋ねている。「4日前からコインロッカーに荷物を預けていたのだが、中の物がない。どこに照会すればいいのか」駅員はフランス語で「英語判る人がいないので朝来い」。全く不親切。それで終わりの出来事に、たまたま、妙に親切な日本人が絡む。見事な通訳で問題解決。期間が過ぎたら遺失物扱いで、きちんと保存しているので明日係を尋ねればいいらしい。アメリカ人は喜び、私に「ありがとう。君はアメリカのどこから来た?」日本人と判ると「君の英語はすばらしい!」と握手を求めた。長身の影は、振り返ることもなくパリの闇に消えていった。短躯の青年は、ヒョコヒョコと地下鉄に向かった。その後、カフェでドゥミを2杯飲んでいるところまでは確認されている。


Solexはパリに最適の乗り物だ。サンドニの通りを2往復できたのもコイツのお陰である。ちなみに、その通りの歩道には、下着姿と変わらない、ミニスカートを着た女性達が1mおきに歩道に立っている。カーニバルの風景かと錯覚する光景であった。駅のハシゴもSolexのお陰なのだが、こちらは、Solexを送るためのトラブルなので、痛し痒しである。

もしかしたら、正式名称は、VeloSolexかもしれない。フランスでは、生産が中止になり、東欧のどこの国で、再開されたがこれも中止になったらしい。誰か関心のある人は是非調べて結果を教えてください。

エスカロップは何となく、肉料理の様なので注文してみた。豚だったが美味しかったんで、その後こればかり注文したが、毎回出てくる物が違った。謎だらけのまま旅は続く。

さて、今回の旅行はここまで完結するはずだったともいえるし、この日から始まったともいえる。少なくともこの時点では、いつ、フシェールに戻るかだけが課題であった。


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2008.07.18   フシェール



7月17日(晴れ)
9時前起床。夕食こそ総てという日々なので、朝は何も食べたくない。10時半出発。銀行に行って、$300→1300F。昨晩お父さんから教えてもらった、パリのガレージに行ってSolex(原付自転車)を買うためのもの。次に郵便局で絵葉書6枚、小包1個を日本へ。昼食のために帰宅(だんだん我が家のような気分)。

散髪屋さんが来ていた。彼はすでに引退し、茶飲み話のついでに、両親の散髪をするらしい。お喋りなのに、ものを知らない。僕が「ミラボー橋は歌の方が美しいですね」と確かめると、「それどこの橋?」お父さんが、「パリの橋だよ。アポリネールだね。詩を歌にしたのさ。」「知らんね。それにしても君は物知りだね」と僕を誉める。おじさんに言われているだけに、嬉しくはない。日本人は普通のフランス人以上に、パリのことを知っている。少女雑誌にさえ、ブティック特集とか小粋なレストラン特集がある。ほほえましいの域をこえて、異様だ。しかも、みんな雑誌の通りに旅をして帰るらしい。

午後は、人工の湖を見学に行った。シャンパーニュ地方は海がないので、ここで水泳やヨット遊びをするらしい。ちょっとしたリゾート地帯である、湖は夏だけのものらしい。広大な国土があるからできるのだろう。自然史博物館にも寄ったが、ハイキング・コースと勘違いするほどに野外展示が豊富。

6時頃自宅へ。散髪屋さんはまだ、喋っている。7時から10時半まで夕食。最後の夜なので、お母さんも、台所を切り上げて、話に加わる。彼らは、「野球は3人でするのか」「すしは日本でもあんなに高いのか」とか。私も、「大人が、鉄のタマ投げて遊んでいるが楽しいのか」と「山道を集団で自転車競争しているが面白いの」とか。自転車のフランス一周競争(Tour de France)の説明は詳細で、大方のルールが飲み込めた。何となく、フランス語が通じている(らしい)。ただし、野球の時は、英語でしゃべり、彼女が通訳をしてくれた。お互い、下手さのレベルが同じくらいの英語だったので、顔を見合わせて笑う。それでも十分役に立った。


今となっては、詳細にその日をたどることができない。たとえば、初日や墓地での彼女の服装は覚えているが、出来事がルーチン化してくると途端にイメージ(像)がなくなる。夕食で閉口したのは、初日に「スープはボールが良いでしょ?」と聞かれたのだが、いい加減に「はい」と答えたので、ずっと皿ではなく、ドンブリで出てきた。最初は匙がないので戸惑っていると、直接飲めとのこと。熱いスープは直ぐには飲めず大変であった。

Solex というのは、その後私と旅をともにしたバイク(自転車?)のこと。運転免許のない私が、I先生に郊外の橋を見る交通手段を尋ねたとき、長考の後、「フランスの田舎は車なしだと、Solexね。」とのご託宣があった。私にとっては、大変重宝な乗り物であった。所詮自転車に毛の生えたものなので、長距離は難渋したが、町中は一人では行けない様なと所もこれで通ることができた。



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