空間情報デザイン研究室
空間情報デザイン研究室 小林一郎
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2008.07.17   フシェール



7月16日(晴れ)
8時起床。9時前に降りて、カフェでコーヒー小を頼む。が、おばさんは気にせず、ポット入りの大を持って来る。鷹揚である。濃いコーヒーをそんなには飲めない。クロワッサンを1個食べて退散。10時15分 Bar-sur-Seineの教会でミサを見学。日曜日であることに気づく。荘厳な雰囲気の中に、美しい賛美歌が響く。

この町は、日曜日でも開いている店がいくつかあるらしい。パン屋でバゲットを買う。自分で払って買った最初のパンである。帰宅後全員で昼食。午後はトロワの大聖堂を見学。当然歩いて塔の上まで登る。回りながら上っていくので少し気分が悪くなる。彼女はいかにも辛らそうなので、休む。申し訳ない。その間、町のことや彼女の職場(大手スーパーの洋服売り場)のことを聞く。彼女の喋り方に耳が慣れているせいか、ほとんど判ったような気がするのだが・・・

その後、「美術館兼 博物館兼 考古学館」へはいる。地域に根ざした展示が多く、それなりに堪能した。休みなのでどこも開いていない。常に二人きりのような気がする。春のような涼やかな陽射しである。いったん帰宅後、夕方(7時前)、墓地に案内された。墓地は、カベに囲まれた、小さな区画に横長のベッドのような形のモノが多い。全く、日本と雰囲気が違う。彼女のおじいさんのお墓を案内され、先祖がイタリー系であることなどを知った。宗教には関心がないといっていた彼女だが、真剣なまなざしで十字を切る姿が印象的。この国は、本当に信仰が日常生活に深く根をおろしていると感じる。

夕食は、7時から10時半まで、スープ、ハム、オムレツ、チーズ、ユーグルト、桃、李、ブドウ、シードル。果物をたくさん食べること。桃や李の皮も食べること。そんなどうでも良いような日仏比較に、皆、時の立つのも忘れていた。外に出ると息が白い。お兄さんのジャンバーを借りる。例年にない冷夏らしい。ヒーターを入れホテルまで送ってもらう。途中、バカンスの開始を告げる夏祭りがあり、花火大会をやっているとのこと。車を止めて、遙か水平線にあがる、鮮やかな光を眺める。フランスの田舎の暮らしもこれから長いバカンスに入るらしい。


Dieu est Amour, Dieu, Mon pere…(神は愛、神は我が父)と繰り返される賛美歌の一節は、今でも耳に残っている。それと同時に、教会内のステンドグラスと蝋燭の光、周りの人々の体臭と香水の混じった香り、頬をなでる微風。全てが鮮やかに蘇る。そんな事柄を気にするような人間ではなかったはずだ。何かが変わった気がした。

「パリとは違うフランス」を実感できたことで、もう少し深く暮らしてみたいと思うようにもなった。特に、香水や花の匂い、果物の味、できあがりのパンの手触り、・・臭覚や触覚は本や映像ではどうにもならない。さらに言えば、実は色も違う。音も異なる。その場所を本当に理解しようと思えば、そこに出かけて行くしかない。その人を知りたければ、会って、ゆっくりと話すのが一番だ。

もちろん、私一人では、このようなことにさえ気づかずに旅を続けていたに違いない。彼女の名ガイドがなければ、日本人の型通りの旅程をたどっていた筈だ。ボンヤリと眺める、五感を使う、安全と判れば強気で行く、知らない事への好奇心を抱く、・・・。彼女だけの特徴なのか、フランス人なら誰でもそうなのか、あるいは、女性一般にそうなのか、今でも判らないが、「目からウロコ」であった。

28歳の日本人はあまりにも幼い。実生活から得られる、常識に裏打ちされた意見をほとんど持っていない。同年配の彼女の立ち居振る舞いや、ちょっとした気遣いが、我が身と引き比べ、成熟し優雅だと感じた。

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2008.07.16   パリ・トロワ(フシェール)



7月15日(晴れ)
いよいよMartineさんに会う日がやってきた。一昨日、ホテルから電話をかけたが、「本日午後のトロワ行き」だけは何とか伝わった。4泊分のホテルの支払いを済ませ、東駅へ向かう。終着駅を利用するのは少しコツがいる。到着ゲートで待っていても、汽車はでない。いきなり予定の汽車に乗り遅れる。

2時前トロワ駅着。構内で昼食をとり、その後電話。彼女は僕のフランス語の先生なので、生徒には、ゆっくりと喋ってくれるのだが、電話というのは本当に難しい、音だけで理解し、瞬時に回答しなければならない。語学の最終到達点なのだろう。で、結局、「その場で待て」の指示。犬並みではある。

小型の真っ赤なルノーが颯爽とやってきた。写真ではよく知っているし、送ってもらった日記風のナレーション入りカセット1時間は毎日のように聞いていたので、本当に身近な存在ではあった。が、実際に握手をし感慨ひとしお。彼女の手が冷たかったことはいまだに忘れない。車は往復2車線の田舎の道を疾駆する。左が追い越し車線かと思うほど、次々と追い越して帰宅。Fouchereという小さな村に着く。早速、家族に歓迎され、シードル(リンゴ酒)を飲まされてほろ酔い気分。お父さんは、傷痍軍人とかで、車いす生活(寡黙だが気配りの人)、お母さんはイタリア人(陽気で口が動いているときは作業は中止)。お兄さん(エンジニア)と彼女(きっと性格は父親似)の4人暮らし。「小さな家なので、ホテルを取った」とのこと、元々そうするつもりだったので、早速連れて行ってもらう。

夕食時に、迎えに来るとのことで、部屋でくつろぐ。旅籠という感じのところで、下はカフェ兼ゲーム場で、元気なお母さんが一人で切り回している。早速、ジュースを注文し、町の様子などを尋ねるが、初めての日本人に関心があるらしく、「日本はどんなところ?」といった類の質問が続く。どれもすんなりとは答えられない。部屋の壁に貼ってる部屋代は14F。パリでは43Fだったので、その差に驚く。静かで緑が溢れ、人々は穏やかで微笑みを絶やさない。それで物価が安いのだから、すばらしい。

夕食は彼女のお宅で5人。ゆったりと楽しい会話だった。「村の人口は」の問いに、父親が300人と答えると、母親が「Olaf(犬)もいるので、301よ」と応じる。「確かに、私たちの子供よね」と彼女が続ける。質素なもてなし料理ではあるが、ようやく落ち着く場所にたどり着いたという実感がある。ただし、私の会話の番になる度に、流れが中断し、フランス語教室となった。心から、自分の浅学を恥ずかしいと思った。帰国したら、何が何でも猛勉強をしなければと心に誓った。明日は朝から、彼女が周辺を案内してくれることになり、お開き。おいしい赤ワインで、ほろ酔い気分の彼女が10分の道のりを送ってくれた。握手した手は暖かかった。それにしても、今日だけでも、飲酒運転1回、スピード違反5回である。


今考えると本当に不思議なことだ。縁もゆかりもない人間が、たまたま文通で知り合い、意気投合(?)する。相手の家を訪ねる。フランスのこんな場所は、フランス人でも知らないはずだ。私は、すっかりフランスの田舎好きになった。ごく普通の人たちの、慎ましやかでありながら「ゆとり」のある暮らしぶりに、感激した。

そうして、もう一つ日本人は当分追いつけないだろうと思ったことは、ごくごく普通の人の中になる大人の感覚(色彩感覚も含む)である。エレガントとは何より簡素なことだというのも実感した。



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2008.07.15   パリ 3



7月14日(快晴) 革命記念日
10時起床。昨晩はそれほど疲れていなかったのだろ、本や雑誌を眺めていたら2時を過ぎていた。いよいよ7月14日(そんな名前のケーキ屋がある)。早速凱旋門へ。すでに黒山の人だかり、後ろから背伸びをしてカメラを向ける。この日はまた、「大出発」と呼ばれヴァカンス移動の一波が道路を埋め尽くしているらしい。町中が楽しそう。

理工科大学生を先頭に、次々と凱旋門からコンコルドを目指して行進していく。騎馬隊、機動部隊、消防隊、戦闘機。国家がある限り軍隊は必要だ。少なくともフランス人はそう信じているし、その軍隊は、「自由・平等・博愛」という世界中に輸出されたフランス思想の守り神でもある。舞台は見事に設計されている。堂々たる幅の車道一杯に広がって隊列が下っていく。両側には同じほどの広さを持つ歩道が見物人のすべてを招きいれる。観客は、行進の先頭をやや見上げるように眺める。過ぎ去った列は、背中を見下ろされ、全体像が俯瞰できる。

これはまさに祭りだ。パレードの終わり近く、軍楽隊が盛んに「史上最大の作戦」のテーマを演奏し、観衆がフランス語で大合唱をする。フランスではこの映画は祖国解放を讃える新しいテーマソングなのだ。そして、今日の日はまさしくフランス人がすべてを手に入れた瞬間なのだ。

聞けば、夕方からエッフェル塔の近くで花火大会があるらしい。それまで、時間をつぶす。まず、河にでて船に乗った。橋の写真を撮った(仕事もしなくてはと思う)。次にエッフェル塔に登る。パレードのせいか、皆浮き浮きしいる。一旦ホテルに戻り、シャワーを浴びる。朝は、出遅れたので、今度は食事も済ませ、一番良い席を取らなければ。完全に運動会の場所取りの気分。

9時過ぎないと暗くならなし、7時過ぎないと普通のレストランは営業していない様子。ところが観光地では、喫茶兼用なので、道路にはみ出したテーブルでは、早めに夕食が取れるらしい。中は客でごった返している。ステーキ(生肉を炙っただけ)、トマトサラダ(ほんとにトマト2個がスライスされただけ)、そして、食前にドゥミ。ところが、ビールではなくポットに入った赤ワインが半リットルきた。これはサービスに違いないと思い飲む。一方ビールは最後まで来なかった。食事は堪能し、勘定になった。ビールが来ていないのにドゥミ分の料金が取られている、と主張。彼はキョトンとし、「これはワイン代」とのこと。

花火は、日本式ではなく、高くは上がらないが、いかにもフランス人好みの彩り豊かな打ち上げ花火で、大いに堪能した。我々は、シャン・ド・マルス芝生に寝転がっているので、シャイヨー宮からの花火は、エッフェル塔の後ろにでる。ここでも舞台がすばらしい。ただし、塔の正面に座るとほとんど花火が見えない。「だから皆ここに座らないのか!」



凱旋門・セーヌ河・エッフェル塔。今改めて、パリ人の町の使い方の巧みさに驚く。ドゥミ=ビールと思っていた。カフェではその通り。しかし、ステーキを注文して、ビールはフランス人には考えられない。書きたいことは山のようにあるが、紙面がつきる。

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2008.07.14   パリ 2



7月13日
7時半起床。9時まで部屋で観光ガイド本を読む。食堂は地下。主人は中国人で、給仕をしてくれた女性は、ジプシーなのだろうか。鼻の下やあごに入れ墨をしているので、ヒゲの様に見える。クロワッサンとバゲ(そう聞こえる)を切ったものが、暖かくて美味。ジャムも手作りなのであろうか、紅茶に良く合う。大きなコップに4杯飲んで、パンも7切れ。用を足して、早速地下鉄へ。

練習に一駅乗って、BirHakeimで降り、橋の写真。昼前に凱旋門を見て、シャンゼリゼ通りを下る。途中早めに昼食をすませ、Le Petit Palaisへ。昼食時なので辺りは閑散としている。静かな場所で絵を見るのは落ち着く。クールベも面白かったが、サラ=ベルナールの肖像画の前のベンチに座ってじっと青い瞳をのぞき込む。巨大な絵画に魅せられるということが本当にあるのだ。

明日は革命記念日(日本ではパリ祭)この辺りで大パレードがあるらしい。大統領も来るらしい。
警察がウロウロしているので、試しに「行進はいつ始まりますか?」と出会うごとに尋ねる。「8時!」「9時半」「12時までには終わる」「午前中」等々全くいい加減。少しずつ町にも慣れてきた(こういうときに悲劇はやってくる)。

チュイルリ公園にはいり、休んでいると、カメラ屋が近づいてきた。「コニカ?アサヒ?いいカメラだね」とオートボーイを誉める。「日本のカメラはすごい。これで写してあげよう」確かに自分の姿を取っていない。どうせなら、OM-2で撮って欲しいので、バグから取り出す。「あ、オリンパス。新製品だすごい。」と感触を確かめ撮ってくれる。なんか、嬉しい。「じゃ。こっちでも撮りましょう」とポラロイドで撮り始めた。良いですという暇もないし、記念なのでいいかと、納得する。

結局、6枚で4000円取られた。どれもこわばった顔が写っている。次にルーブルへ。山のような人である。ニケ像の前まで行くと「イマナンジデスカ」と変な訛りの日本語。自慢の電卓時計をみせる。礼もそこそこに「モナリザまで連れて行きましょう」。20歳くらいのなかなかの美人。断るが、しつこい。「私は日本語を勉強中なので、少しお話しましょう」ときた。無視。今度は、彫刻の反対側から笑顔を覗かせ、「あなたはカワイイ」。カメラ屋事件の直後でなければ、絶対喫茶店に直行するところだが、無視し外にでる。ルーブルとの出会いは最悪であった。

さらに、Bercyまで橋の写真をとり、夕方いったんホテルに帰る。9時まで休んで、Pigallで、フォアグラの定食を食べる。この辺りは一大観光地。「ちょっとだけよ」というドリフターズの流行語があちこちから聞こえてくる。振り向くと店内に引き込まれろうになる。酷い一日だったので、早々に帰る。ホテルの隣のカフェで、ドゥミを注文。良い気分で部屋に引き上げる。


ドゥミ(demi)は半リットルの意味で、日本だと小ジョッキのビールというところ。これがすっかり気に入り、昼でも夕方でも、カフェでトイレ休憩をし、ビールを飲んだ。悪循環の典型である。観光ガイド本は、『ブルーガイド海外版 パリとフランス』と『同ドイツ』この2冊が旅の友であった。『地球の歩き方』はまだ創刊されていない。


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2008.07.13   パリ 1



7月12日(水) Paris
7時起床。夏とは思えない爽やかな朝。昨夜の疲労は解消したが、腹の調子は良くない。食堂がどこかを聞くのも面倒なので、何も食べずに出発。通りの名前は、ホテルと同じ「エッフェル・エリーゼ」。塔の入り口はすでに長蛇の列。予定を変更し、まず、橋を見学。Alma から上流に向かって歩く。地図なしでも大体のことは頭に入っている(つもり)なので、気にしない。

すべての橋を渡りながら岸を歩くので、時間がかかる。幅員は広く、歩いて気持ちが良い。ノートルダム寺院が見える辺りで、さすがに空腹と疲労で休憩することにした。ところが、入った店が、アメリカ風の立ち食いショップ。どうにか注文は通じているが、相手が何を言っているのかほとんど理解できない。余りにも早口。しかし通じただけで満足。料理の名前を覚えてこなかったのは大失敗だ。飲み物もカフェしか知らないので、まずはそれを注文したのだが、一口大の代物。確かに映画ではこんなのでした。サンドイッチとハンバーガーの中間みたいなパン2個を、水もなしに飲み込む。喉につかえ、苦痛と不安で多少涙目になっている。

観光地にも行かず、一人トボトボ河畔を歩く自分が少し哀れに思えたので、右岸の街の中にさまよい込んだ。どこを歩いても珍しい風景。オペラ座を過ぎた辺りで、川へ向かう。目的のない一人旅は、心弱い人にはきついモノなのだろう。誰かがいれば、「笑い」になることが、どれも「寂しい」ことに思えてくる。今自分が旅のイロハも知らないことに気づいた。第一、バルザックのパリやフランス革命期の地図しか知らないのだから、呆れてしまう。通り過ぎる人は皆、地図や観光案内らしいモノを見ながら歩いている。特に細長い緑の本は、後ろポケットに入るらしく便利そうだ。

気づくと、ノートルダム寺院の前まで来た。20分ほど前の広場で休む。河畔からの風景写真しか見たことがなかったので、正面の塔の姿に違和感がある。ゴシックの尖塔は、天にも届くほどに立ち上がっているものと思いこんでいた。この場所は僕にとってはメグレの職場の近くという以上の関心がない。内部を一周し、宝物館を見学したが、フランス史の細かい部分を知らないのと宝石類に全く興味がないので、感激したのはステンドグラスとジャンヌダルクの像だけ。少し元気も出てきたので、南塔に登る。歩くのには自信があるし、高い所は大好きだ。入り口は北の塔で、階段は387段。狭い階段を何人も追い越して登っていく。窓からの眺めがドンドンと変化し、パリが広がっていく。徐々に心も晴れ晴れとして、ようやくヨーロッパへやってきたのだという実感が沸いてきた。矢のように伸びる尖塔、天井を支える梁、何とも美しい教会であることが判った。後陣の素晴らしさにしばし見とれる。

St Michel 通りにでて、I先生が紹介してくれたJoseph Jibert(本屋)に行く。何時間いても楽しい。旅の友に、文庫本を2冊買う。ついでに、技術系の本屋の場所を教えてもらう。何とか通じている。徐々に調子が出てきた。店内を眺めるが橋の本が見つからない。白衣のような服を着ている女性店員に、“Vous avez des livres sur pont”「橋の本ありますか」と尋ねた。“Oui bien sur”「もちろん」とにこやかな返事とともに連れて行かれたのは、鳥コーナーのクジャク(paon)。発音が悪い?そこで、僕が“pon ? pan ? pyon ? と変なことを言い出したので、「英語判る」と聞かれた。”yes, books about bridges!!”と答える。結局英語かと内心ガッカリしながらも、通じることが先決だと、自分を慰める。ところが、彼女が連れて行ってくれたのは、ゲームコーナー。先が読めたんで、”No, no, Bridge! “ と良いながら、何かと何かを繋ぐジェスチャーをした。彼女は顔の前に人差し指をたて、「了解」という(きっとそう言ったのだろうと推測しただけ)と、元の場所の近くに引き返した。結局英語も通じないのかと、落ち込みながらついていくと、そこは医療関係。内心叫ぶ「ここにもBridgeがある!」。 ”Madame, Ecutez.(僕の歌を聞いて)“ そして歌った。「橋の上で踊るよ 踊るよ」。彼女も正解に到達した。フランスの本屋は何と楽しい所だろう。

橋の本1冊と文庫本2冊を抱え、7時過ぎのまちを西北方面に歩く。地下鉄が高架になった辺りを歩きながら、初めてパリに地下鉄があることに気づく。しかし乗り方が判らない。本一冊で大騒ぎした後なので、今日は素直に歩いて帰ることにした。さすがにふくらはぎが痛い。


ちなみに、Gibert Josephが正しい書店名らしいが、最初に教えられた通り、今でも、反対に覚えている。緑の本は、もちろんミシュランの緑(観光ガイド)。2冊の文庫本は、Asceseur pour l'echafaudとL'annee derniere a Marienbad.

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2008.07.12   モスクワ・パリ



7月11日(火)モスクワ(曇)→パリ(晴)

17時36分 シェレメチェボ国際空港出発
21時20分 Charles de Gaulle空港着 成田やシェレメチェボが味気ない箱だとすれば、この空港は、極めてモダンな未来都市だ。この時間でも日本で言えば夕暮れ時。15時間10分の旅であった。すでに空港は閑散としているが、両替をし、フランス語版のPlayboyとLuiを買う。我ながら、志が低いが、これなら読めそう。ここまでは無言。ただ、金を出せば、向こうも品物と釣り銭を投げてよこす。少しは喋ろうと思うが、言葉が浮かばない。バス停を探す。何も判らず、戸惑っていると、男性がバスの車掌に“C’est a Maillot?”と尋ねた。車掌も”Oui”と返事。これならできそうなので、次のバスが来るまで周りをじっと観察。次のバスに向かい“C’est a Maillot?”と叫ぶと、”Gucha Gucha Gucha”と聞き慣れない返事。これをパスし、もう一台待つ。今度は、同じ質問に、バスの中からだるそうに”Oui”が帰ってきた。それだけで今日一日の苦労はすべて解き放たれた。嬉しい。

22時27分 リムージンでMaillotまで。
23時20分 予約したホテルに到着。途中すっかり闇に包まれたパリは、ナトリウム光にホンワと映し出される町角が、映画の世界のように幻想的であった。「ようやく来た」と自分に語りかけた。
24時20分 風呂に入っても,横になっても、とにかく体が揺れている。時差のためだけでなく、15時間も狭いところにいたからだろう。心は軽いが、体調は悪い。


タクシーから見たパリの夜景は、忘れられない。Maillot門からEiffel塔の近くまで行ったのだから、町らしいところは通っていないはずだ。瀟洒な町並みに、そぞろ歩くカップルが見える。「全てが絵になる」光景だった。

当時の写真を載せたいのだが、ネガが見つからない。
見つかっても、退色していないか、悩みのつきない週末である。


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2008.07.11   東京・モスクワ



7月11日(火)東京(雨)→モスクワ(曇)
8時 荻窪までバス。東京まで国電。立川あたりで事故があったらしく電車が来ない。来たら来たで、満員、2本目に無理矢理カバンを押し込み自分も駅員に押し込んでもらう。雨と汗でビショビショ。電車内も奇妙なにおいがしている。東京駅に予定より遅れて着いたので、タクシーに乗ることにする。日本円の残りが少ない。こんな場面を想定していなかったので、昨夜、大雨の中、従兄弟と二人前祝いをし、日本円はほとんど残っていない。
9時半 Tokyo City Air Terminal 着。タクシー代590円。東京は手ぶらでも疲れるのに、車の付いたカバンを担いで階段を上がり降りするので、本当に疲れた。所持金も、あと2000円しかない。どうすれば良いのか判らない。まだ、開業して間もないので、誰も周囲の様子がわからない。「両替がある!」。ドルを円に替えれば何とかなりそうだ。しかし、最初の両替がドルを円にでは悲しい。ギリギリまで我慢することにした。領収書と案内の紙一枚を握りしめ辺りを探す。外人がうろうろしているので、全く不安である。子供なら臆面もなく泣くだろうし、そうしても十分納得してもらえる状況だが、それもできない。乙女のごとくに慎ましやかに、幾組もあるツアーの中から、旅行代理店の職員を探す。切符をもらったときには、少し涙ぐんでいたかもしれない。

ところが、「各自荷物検査をここで受けて、リムジンバスで成田へ向かってください。」とのこと。航空券はまだ、紙切れに過ぎない。あわてて、バス代を確認。1900円。何とかなりそうだ。早速、バスに乗り込む。途中空港まで、徐々に警察官の姿が増えてくる。11時20分 成田着。人里離れた所に国際空港は存在していた。空腹だが、空港で買い物もできない。じっと待つ。昨日の刺身のせいか、お腹の調子も良くはない。

13時10分 アエロフロート出発
ソ連の飛行機なので、ミグ戦闘機に撃たれることだけはない。朝からようやく安息の場所を得た。機内ですぐに欧州時間に合わせる。大陸標準時間は、日本より8時間遅れであるが、夏時間(3月下旬から9月下旬)が採用されているので、出発は6時10分ということになる。

7時20分 広大なシベリアが続く。青々あとした森と蛇行した大河の風景が、それぞれに表情を変えながらも、果てしなく繰り返される。

16時07分 シェレメチェボ国際空港着。すでに2回食事がでた。ロシア人スチュアーデスなので言葉が通じない(というよりマモとな外国語はできないのだから結局無口で通すしかない)ので、黙々と食べ続けた。ワインでも水でも頂けるものは何でも詰め込んだ。体調は最悪。早速トイレに駆け込むが、外から丸見えだし、紙がわら半紙を切ったものなので、すぐには使えそうにない。何度も揉みほぐし、柔らかくなって使用。

結局、最初に踏みしめた海外の大地(実際はビルの中だけだが)は、モスクワであった。空港内にも軍靴が響き渡り、巨大な田舎という印象であった。


毎日新聞夕刊一面『朝の中央線大混乱』
「11日未明、首都圏を中心に降った集中豪雨のため国電中央線で土砂崩れや線路冠水があり、ダイヤが乱れたのをはじめ、・・・。この影響で午前7時過ぎから立川、国分寺、武蔵境、新宿駅などで改札規制が行われたほか、快速電車八十本が運休、三十本が最高二時間遅れ、二十万人の足が乱れた。」とある。
また、三面には『欧州 冷夏エレジー』とあり、「うだるような暑さの日本とは逆に、欧州は寒い夏のご到来。時々氷雨のような雨が降り、夜は暖房がないと過ごしにくい。」とのこと。
これを知ったのは、30年後のことであった。




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2008.07.10   1978年7月5日



1978年7月5日(木)
もう完全に休暇状態に入った。昨日は日本生命(旅行保険)と大宝堂(予備の眼鏡)へ。明日は銀行へ行くが、T/Cを円で30万、ドルで20万分買う予定。午後は、鶴屋に寄って扇子や日本的なものを適当に買った。さらに、フィルム20本、ジーンズ、Tシャツ、カメラやフィルムを入れる手提げカバンなどで5万円が消えていった。
明日から3日間、散髪、洗濯、掃除をこなし、布団屋さんとも会わなければならない。

I先生から最後の手紙を頂いた。縦書きで、流れるようなペンさばきである。女性らしい、美しい手紙にしばし見入る。ただし、内容は旅の実用知識について、無知な教え子に最後の確認。師曰く。
「荷造り用のひもや紙は、デパートに行けば売っていますが、その暇がなさそうであればお持ちになればいいと思います。ハサミは必要です。・・・boite d'emballage といえば、2.5フラン位で箱を買えますから、その箱を使えば、紙は必要ありません。・・・不要の衣類その他は、包んで送り返せば、8フランで送れます。・・・足が疲れるし、不潔になりますから、洗えるスリッパを一つ持って行くと便利です。・・・」


いま思えば、そんな大げさな話ではない。しかし、当時はまだ新婚旅行といえば、グアムが最新流行で、普通の人は宮崎だった。たった40日の旅行なので、学生時代の夏休みの長めの帰省と同じなのだが、全てが気になる。
しかし、27年の人生の総決算であると考えれば、それなりの覚悟で臨むのは当然だともいえる。I先生の、アドバイスだけがすがるべき一本のワラであった。私の旅の常識の核にはこの手紙があったのかと、今読み返して納得した。情けないほどに薄っぺらな27歳ではある。
実は今振り変えると11日までの記憶が全くない。6月までは簡単なメモ書きがあるが、7月にはいると買い物リスト等が残っているだけだ。どの様にして東京の従兄弟のアパートへ転がり込んだのかさへ、はっきりしない。
たしか、彼は早稲田の夜学に通いながら、東京12チャンネルでバイトをしていて、そこまでカバンを押していって、そこから、・・・・・。
かくして、準備不足のまま旅は始まった。


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2008.06.29  



1978年6月26日(月)
土日は土砂降りが続いた。今日は休暇を取った。出かけようとしたら、学生がやってきて、「測量の残りやりたいので、器材室開けてくださーい」。そうだろう、僕が今日は休みを取って土日に出来なかったことをやらなければならないなどということを、彼らは知るはずがない。午前中は何とか県庁まで行って、午後は結局彼らに付き合っていた。「休暇を返せ!」と叫びたい。学生に対してではない。彼らは、空き時間にこの炎天下作業しているのだから、ほめてこそやるべきだ。かといって、この焦燥感は誰にぶつけるわけにもいかない。これは職務なのだから・・・。

とにかく、焦っている。何から手を付けるべきなのか全く判らない。
フィルムはどこで何本買えばいいのか。服は何を着ていけばいいのか。旅行中40日、部屋はどうなるのか。センベイ布団は、この際布団屋に出して、打ち直してもらおうか。ドルと円はどれくらいずつ持って行けばいいのか。本当に空港で、切符を渡してくれるのか。
一人で成田まで行けるだろうか。

雑多な疑問が、押し寄せてくる。どれが重要なのか、どれが最優先なのか全く判らない。とにかく、夕方は、土質実験室に行って、将棋をした後、ビールを飲んで、明日出直すしかなさそうだ。


結局、研修届けは「フランス国、ドイツ連邦共和国、スペイン国及びオランダ国 橋梁調査研究のため」というタイトルで、事務に受理された。県庁にも3度通い、180cmはゆうに超えていると思われる女性事務員さんに、パスポートを手渡された。「日本国発行数次旅券」を手にしたときには、恰も長旅から帰った人のように、充実感と疲労感で、一瞬我を忘れてしまった。

とにかくドタバタであった。パスポートのgiven name とsurnameでさえ、そっと辞書を確認したし、sexの欄には、「まさか回数じゃないし」などとつぶやいたりした。性別という訳は、この時知った。French Study Tourというツアー名は、毎朝ながめていた。なにしろ、往復27万円の代物で、しかも切符は現地(東京箱崎)渡しらしい。地図でようやく成田がどこか判ったところで、箱崎はどうやって調べればいいのだろうか。

今では考えられないだろうが、洋行は大変だった。餞別をもらうほどのことなのだ。リストを見ると、10人の名前が、その額と同時にメモしてある。おみやげの買い方も知らない上に、円ードルーフランというレート換算が面倒なので、大半の人はお土産のほうが高かったはずだ。行く前から気が滅入ることばかりだった。

おまけに、このパスポートは、一回しか使うことなく、30年間段ボール箱の中で眠ることになる。今見ると、写真の顔はは痩せこけて不安そうである。



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2008.06.13   1978年6月14日



1978年6月14日(水)

長嶺の日赤まで、自転車で行く。未だに、バスで行くことが出来ない。Yellow Cardを作る。パスポートの申請にも行かなければならない。夕方から町に出かけ、カメラ部のY君の紹介でカメラを購入。オリンパスのOM−2にMIniZoomを付けて、96520円。久しぶりに10万円を支払う。技官のMさんがOM−1(マニュアル)を持っているので、同じものを買えば、教えてもらえると思っていたら、新製品のオートタイプをすすめられ、飛びついた。風景くらいは押せば何とかなるらしい。

明日は眼鏡屋にいって、予備のメガネを作っておきたい。明後日は、県庁に行ってパスポート申請。戸籍抄本を取るのに一々大阪市役所に申請するのはもう飽き飽きした。機会があれば、本籍は、熊本市か、大分市に移そうと思っている。

Majaから手紙あり、急ぎなので、フランス語で書いている暇がない。速攻、英語で夏は日本にいないことを告げ、日本留学はあきらめるよう説得。一体こんなせっぱ詰まった時期にポーランドから来たいとは、困った話だ。昨日の測量実習も雨で、室内の演習にした。いつもなら、うれしいことだが、今年は、こんなことで、補習が増えると困るのだ。とにかく、困ったこと山積の日々が続く。


最近自宅にいるときは、ほとんど書斎で、ゴソゴソ捜し物をしている。
ようやく30年前の公務員手帳が出てきた。予定が何も書いていない。毎日学校に行って雑用をする以外に日程表に書き込む何事もないのである。当時作った橋梁のノートも出てきた。30年ぶりに眺める。驚いたのは、ノリが、すべて剥げている上に、ノリの部分が変色し、反対側まで茶色く変色していることだ。当時最新のノリで、「手はベト付かず、はみ出したノリは、擦ればとれ、仕上がりがキレイ」という評判のものだった。惨憺たる結果である。結局、普通の糊は、今でも剥げていない。当時の文庫本でも、酸化が始まり、色褪せたものと全く変化のないものがある。特に、岩波文庫のひどさは悲しい。

当時のカセットテープも引っ張り出して聞いてみた。大切なものは、デジタル化しておくべきではないかと思い立って、その様な機器を買ってきたりした。しかし、30年後はどうなっているのだろう。DVDという媒体は、下手をすると10年位しか持たないらしい。CDよりもMOのほうが長期保存には向いているとも聞いた。海外製の安売り媒体を買うと、バックアップのバックアップが必要らしい。何をしているのか判らなくなる。結局カセットテープは、40年は劣化しないことは確かだ。オープンリールならもっと長持ちするに違いない。50年前に使われていたものは、50年後にも存在しているのだろう。

懐かしい本を再読することも多かった。「わがいのち月明に燃ゆ」と「ドリナの橋」は、高校時代に読んで、その後のわが人生を決定づけたという点では重要である。だたし、その内容においてということではない。前者を読んで、「大学に入ったら、この人の半分くらいは本読みにならないと」と思った。10分の1くらいは実行できたと自負している。さらに、後者が土木工学を選ぶきっかけとなった。これは今でも原因(本への感動)から間違った結論(人生選択)を出した好例だと思っている。あの本に感動した者は、当然、文学者を志すべきだ。高校生の私は本の読み方さへ知らなかった。前者が実行される前に、後者によって人生を決めたことが論理的には間違いを生んだ。しかし、人生の選択として誤っていたかというとそうでもない。橋が好きなことは、決して恥ずかしいことではないのだし、あの本がに出会わなくとも、おそらく橋に関する何かに出くわし、必ず土木工学を選択したように思う。


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