空間情報デザイン研究室
空間情報デザイン研究室 小林一郎
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2008.06.02   1978年6月2日



1978年6月2日(金)
工学部事務官S氏「あのね小林君、研修届けはたい。公式文書だもんね。訪問予定国にイギリスとかイタリアとかは、はいとっとですか?」
小林「エー、あの、日程次第では、行けたら行きたい・・・ということで、カッコにしたんですが。」
S「予定ていうとはタイ、きちんと書いてその通り実行せなんとよ。」
小「予定というのは未定なので、ま、幾つかの可能性を併記するというか・・臨機応変に旅をするというか・・・」
S「君は、国家公務員で、この文章は最終的には、文部大臣が許可するわけだけん、そがんいい加減ではダメたい。」
小「・・・・(そんな大げさな話ではないと思うけど。)」
S「大体、イギリスという国はなかよ。王国連合て書かかなんと。」
小「・・・・(なるほど、それで、UKなのか。)
S「西ドイツもダメ。ドイツ連邦共和国です。」
小「なるほど、だから、ブンデス・リーグなのか。」
S「え? なんて?」
小「は? とにかく、正式の国名を書いて、毎日何処から何処に移動して、何処に泊まるか、全部きちんと書けば良いわけですね。」

どうにもならない。行ったこともない国の都市をどう移動し、どのホテルに泊まるかなど、書きようがない。第一、何処に行くかも決まっていないのだ。しかし、1ヶ月前には、教室会議で了承をうけ、指導教授の許可と、不在の間の職務の代替者や不在中の連絡先も明示せよとのことである。こっそり、勝手に行くことは出来ないらしい。かといって、すでに、アエロフロート機の予約はしたので、出国と帰国の日は確定した。事務手続きで失敗はさすがに、恥ずかしい。とにかく、仕事も含め、すべてを中断し、旅程の確定をするしか。とにかくパスポートの連絡先も、父親にするしかないんで、もう一回帰省しなければならない。だんだん、旅行がどうでも良くなり始めていた。



この日の熊日の記事に面白いことが出ている。「今年中にゴーサイン」建設省が10年来の懸案であった、立野ダム建設にいよいよ着手という記事である。30年後のいまも、この状態は変化していない。我が国では、土木事業とは気の遠くなるような構想の期間が必要なのだということが判る。前日の一面は、福岡の水不足である。ホテルで風呂に入れないというウソのような話だった。博多は、水すら自己調達できない、脆弱な町なのだ。
みんなそんな常識すら忘れてしまったのだろう。

同じくこの日、ジャンボ機のしりもち事故が起こっている。この機体が後に、大惨事を起こす機体(羽田発大阪行き 日航ジャンボ機JAL123便)となる。また、同じ頃、田口八重子さんはじめ何人かの人が忽然と行方不明になる事件が続いた。しかし我々は、そのときはことの重大さに気づきもしていない。一連の拉致事件の重要な年だったのだ。

私は、旅程策定で、精一杯の日々だった。すでに、橋梁の調査はほぼ断念した。当たり前のことだけれど、調べれば調べる程、橋の数は増え続け、自分では手に負えなくなっていた。観光関連の情報も溢れだしていた。ロワールのお城巡りとか、ドイツのロマンチック街道、スイス・チロル地方の村巡りとか。そんな旅のほうがずっと魅力的な気がしてきていた。とにかく、この時期となっては、最大にして、ほぼ唯一の目的は、トロワにすむMartineさんに会うことだった。これを誰にも気づかれることなく、橋紀行をやり通すのが、夏の仕事だった。何が何でもやるしかない。


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2008.05.25   1978年5月23日



1978年5月23日(火)
27歳になった。この歳になると、「なった」というだけで、別に誰も祝ってはくれないし、そんなことをしてほしいとも思わない。ただ、電卓騒動の後だったので、フット両親のことを思った。
 「日本交渉 早期再開」福田総理はもたつきつつも、少しずつ外交も軌道に乗せつつある。21日には、成田も何とか開通した。熊日にも中国問題に続き、「成田、力強く鼓動開始」とあり、昨日は100便の離発着があったことを伝えている。国内からの第一便は「新婚30組乗せてグアムへ」飛び立った。しかし、今日に至る騒ぎはひどかった。「日本の空のアキレス腱」とか「廃港闘争エスカレート」等の見出しが躍る国際空港が、この世にあるのだろうか。
 県内の話題では、熊本市が、ドイツのハイデルベルグとの姉妹都市協定にむけ、「15年来の慕情実現へ」議員団を送ったとか。明るい話のはずが、こんなことすら15年かかるとは、「僕のヨーロッパ旅行並だ」とお互いのできの悪さを思った。



57歳の今日は画期的なことが起こった。日経コンストラクションの取材が終わったところで、「学生が記者の真鍋さんに、用事があるので別室で休憩してください」などと、変なことを言い出した。何かなと思ったら、誕生ケーキがあるという。これが単なるケーキなら食べて終わりにしようと思ったのだが、鶴原さんの手作りと聞けば、簡単に済ますわけにもいかない。歌は止めにしてもらって、ローソクだけは吹くことにする。関係者全員に感謝

さて、このところ飛び回ってばかりいるので、落ち着いて原稿を書くヒマがない。沖縄、長野、東京、大阪と毎週どこかで誰かに会っている(ということは懇親会をしている)。さらに、帰ってくると、こちらでも何とか会という名の飲み会が続く。結局今日は、日経の「真鍋記者を囲む会」と「M2の修論中間発表の打ち上げ会」とを兼ねたもので、私はゲストには入ってはいなかった。そこまでは良いのだが、体力的にかなり参っているのは確かで、ビール2杯の飲んだだけで、2次会にも行かず帰宅した。

今の日記ではなく、当時を回想すべきなのだが、30年前のこの時期は、成田が開港し、旅行がぐっと現実のものとなり、研修の日程表の作成に悪戦苦闘していた。


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2008.05.24   1978年5月20日



1978年5月20日(土)
「団結小屋2カ所を使用禁止」成田空法成立後はじめての適用である。最も有名な第一要塞は、戸村委員長の「反対派農民の記念館として平和利用」という宣言をうけ、適用除外。農民グループには配慮しつつ、活動家グループを分断する作戦であることは誰の目にも明らかだ。
 過激派による成田以外での闘争を警戒し、機動隊は全国の空港でも、24時間の警備体制に入った。熊本空港の様子もラジオから流れている。日本国ではどうして、こんなちぐはぐが起こるのか、不思議だ。
 
 今日は、旅行用カバンと下着や小物(カメラを入れるバッグや電卓)を買った。旅行カバンを包装したいという店員と一悶着あり、買ったもの総てをカバンに詰めた上で、包装してもらった。最新のキャスターつきなので、ゴロゴロ引きながらアパートまで帰る。
 CASIO MQ-5 という旅行用の電卓は面白い機能が付いていた。夜はそれで小一時間遊んでいた。適当な日付を2回入力し、差を取ると日数を計算してくれる。確かに、5ヶ月後が何日後なのかが判ればそれなりに、何かに役立ちそうだ。さしあたり思いつくのは、論文の原稿提出日まであと52日とか(・・くらいしか思いつかない)。
 仕方なく別の使い道を考える。今日は生まれて何日目か(9859日)。1万日生きたとしたらそれはいつか(1978年10月8日日曜日)。妹は僕より何日おくれで生まれたか(1564日)。僕が生まれたのは何曜日か(水曜)。お袋は今日まで何日生きた(20729日)。僕が生まれた日お袋は(10870日)。親父は・・・。アホらしくなってやめた。



当時の手帳に、10行にわたって日数計算のメモが残っていた。確かにあの日、そんなことで時間をつぶし、家族以外に誕生日を知るほど親しい人のいないことだけが判って、白けてしまったことを思い出した。かといって、学校に持って行って、「先生と僕は、10000日の差です」とやるほど、馬鹿でもないので、この電卓はそれきり使わなかった。
 しかし旅行では、目覚まし時計として大いに役立った。本当はお金のレート換算に使う予定だったが、2つの理由でやめた。一つには、急激な円高のため円やドルを現地通貨に替えるたびに、金額がわずかずつ違った。もともと2万くらいづつしかか換金しないので、わずかな金額の差を考えるのは時間の無駄である。
 さらに、旅行をしたらすぐ気がつくことだが、「今買ったのは日本円だと、980円なので高い」といった判断はまずしない。一方、その土地の物価の基準値との比較大いにやるべきだ。つまり、バスの基本料金や昼食の値段、ホテルの値段は、その町についたらまず頭にたたき込む。それより高いか安いかが大事だし、基準値は新たな情報が付加されれば修正すべきだ。そして、それは計算すべき事柄ではなく、瞬時に感じ取るべきことである。私は、子供の頃からの習慣で、この点は十分の訓練を積んでいる。知らないまちはこのようにしてでも、感じ取れる。


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2008.05.08   1978/05/10



1978年5月10日
 結局、飛び石連休は、帰省すら出来なかった。用事もキャンセルになり、何ということもなく10日が過ぎた。一応ドイツ方面の情報は大体まとまった。橋梁ノートもそれらしくなってきたが、反対に余りにも多くあり、それぞれの橋に、どのような工学的価値があるのかがハッキリしない。今さら人に聞くのも体裁が良くないので、独学するしかない。
 昨日、別の紙に都市ごとに橋名をまとめてみた。Duisbourgに5橋、Neuenkampは斜張橋なので二重丸。Dusseldorfには斜張橋が3橋か4橋ある。Theodore Heuiss橋とNord橋が同じなのかどうか判らない。他にも4橋くらい著名なものがある。ドイツの技術誌は学科の図書室に4誌あるので情報は取りやすいし、今が最盛期なのだろうか、記事も多く文章が長い。まじめにドイツ語をやっておけば良かったと反省しきりだ。
 一方フランスの橋はイギリスのCivil EngineeringかAcierにしか載っていない。記事も簡単。やはり、フランスという国では橋など造ってはいないのだろう。おまけに、文系の連中の情報が多いので、肝腎なこと(橋の材料や構造、スパン等)は載っていない。ストラスブールには「小脇にパンを抱えて恋人同士で渡るとすてきな橋がある」らしい。こんなバカらしい観光案内に付き合ってはいられない。といって、技術者のフランス報告は、ほとんど怪しげな発音なので困ってしまう。ルーアンにある橋は、コルネエ橋となっている。恐らく、コルネーユのはずだ。リョンはきっとリヨンだと思う。パリ市内のセーヌ川に一体、いくつの橋が架かっているのかさえ、はっきりしない。
 我ながら恥ずかしいが、今日になって、パリ市内の地図を手に入れていないことに気づいた。行って買うことにして、当面、有名な橋の名前と形式くらいはメモしておこう。
どうも、橋の研究するには、ドイツしかないらしいので、旅行の大半はドイツ国内を回るしかなさそうだ。イタリアはあきらめ、パリ−ナント−トゥルーズ−バルセロナ−アヴィニヨン(ガール橋には行かなければならない)−その後は、ライン沿いにドイツを回ることになる。後半は勉強のみの旅になる。


 あの頃、初めて技術雑誌をまじめに読んだ。人は、窮地に追い込まれると、結構良い仕事をするものだ。大変勉強になった。橋梁関連の英単語の主だったものは、この時に覚えた。一方フランス語の技術書が読みたいという、強烈な欲求は満たされなかった。橋梁史の本を読みまくる日々を過ごすのは、十数年後リヨンに留学してからであった。大器ではないが、晩学の一生ではある。
 5月11日に山口百恵の「いい日旅立ち」が発売された。あれから30年たったことが不思議な気がする。

 この年、4月上旬に中島みゆきの「愛していると云ってくれ」というアルバム(LPレコード)がでた。誰かがダビングしてくれたカセットを本当に良く聴いた。
 Beauvoir風にいえば「みゆきはみゆきとして生まれて来たのではなく、みゆきになって行った」その第一歩がこのアルバムだ。決してその前ではない。
 一連の曲(この場合は最初の5曲)は、不可分の作品であり、それらは時として人を救う。当時の行方の定まらない私を支えたのは、今こうして手に取っているこのテープだった。少なくとも、7月10日までは・・。



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2008.04.27   1978/04/30



4月29日(土)
 成田法可決(現地を特別治安地域に定め、所有権が制限される)。5月20日の開港にメドが立った。
  
 4月30日(日)
 昨日と今日と久しぶりの連休だが、その後3(水)、5(金)、7(日)と見事な飛び石である。その間は学生が全員で休めば、休校になるのだが、みんなまじめに学校に来る。先生方はきっと暇だから研究室に来るので、結局僕も、毎日顔を出すことになる。くどいけど、数年前までは、国際反戦デーは当然休みだし、自主休校とかクラ討とか授業をしない方法は幾らもあったのに、みんな学校好きになってしまった。
 別府のI先生に電話し、安く行けるツアーについてお願いをする。「アエロフロートがいいかもね」と出来る大人はこちらの気持ちを簡単に読んでくれる(電話代180円)。
 昨日熊本美術館に行った。ついでに、旅行に履いていく運動靴(1250円)を買う。早めに履き慣らしておいたほうが良い。旅行中はほぼ歩きの毎日になるはずだし、自信はある。
 金曜日にeuredifが届いた。紀伊国屋に注文して、半年かっかた。船便とのことなので仕方はないが、すでに読む気力はない。ベッドの上には、読みかけの本が、20冊くらい置いてある。論文は書けないし、計算はうまくいかないし、旅行も何から手を付けていいのか。
 
5月1日(月)
 「無人炭車 人車に激突(大牟田 三井四山鉱)」久しぶりに地元の話題が一面を飾ったが、悲報。石炭運搬用の車(30両)が4キロ暴走し、炭坑員の乗った車列(20両)に激突。死者1名、重軽傷者103名。
 
5月2日(火)
 熊大法文学部、来年度にも分離。久しぶりに、地元の明るい話題。
 


 euredifというのは、フランスのペーパーバックの書店で、推理ものやポルノ系の文庫。ある時、これなら読破できるのではと信じ注文したが、忙しい最中にヒョッコリ届いた。結局今日まで未読。
 大牟田の事故は、あの場所で繰り返された事件の最後のエピソードの一つだろう。我々は、ヤマの人たちの話を余りにも軽々と忘れてしまった。労働争議、事件、事故、閉山、・・・。炭坑遺産とは、悲劇の総体を核として圧縮したものでなくてはならない。土木遺産も同様。
 法学部と文学部。私は今でもつい「法文」と呼んでしまう。同時期に東海大の農学部の話がまとまったはずだ。この頃熊大にも農学部創設の話があったのだが、こちらは一大痛恨事である。熊本という地域にとっても、地域づくりを目指す我が学科にとっても。
 
 この文章は、見知らぬ町について書く予定であった。旅行が始まればそうなると思うが、現時点では、熊本という、私にとって未だにどこか馴染めない町での、悪戦苦闘記になっている。書き始めて、8月末まで、こんなことを書き続けていく気力が続くか心配だ。いま本当に後悔している。
 しかし、30年という時代を隔てた、共通点(変わり映えのしない話)や相違点(今となっては考えられ無い話題など)を書きとめつつ、遅れてやってくる青年たちへの何かの参考になればと思っている。


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2008.04.26   1978/04/23



4月20日(木)
 昨日は、公労協の第2波のストで、博多からの帰りは大変だった。熊日の朝刊には、「全国で490万人の足に痛手」と書いてある。事務室で新聞を広げながら、「足に痛手は、可笑しいと」話したが、若い事務員さんは受けない。むしろ熊大病院前にあった開花前の「ツツジ20株が根こそぎ」がねらい撃ちされた事件に話が弾む。
 成田関連では、「青い目の取材陣続々」という見出しで、廃港論や凍結論が、世界に向けて配信されている。そんな中、僕の意欲をくじくような事件が起こった。パリ発アンカレッジ経由ソウル行き大韓航空機が北極上空で消息を絶った。初めは事故報道だったが、午後にはソ連領内に強制着陸させられたに変更。乗客は全員無事とのこと。
 
4月22日(土)
 事件の経過がだんだん明らかになってきた。KAL(大韓航空がこう呼ばれることも初めて知った)がソ連の領空侵犯をし、防空戦闘機が迎撃。日本人一人が死亡したらしい。東経と西経を間違えたらしい。テレビのワイドショウでは、「冷淡なソ連の当局」と「弱腰の日本外交」の際だつ対比が決まり文句のように繰り返され、結局真相ははっきりしないままの番組がたれ流しされた。唯一の明るい話題は、「ピンクレディのラスベガス・トロピカーナ・ホテル初公演」を伝える国際電話の熱気だった。
 
4月23日(日)
春闘の話ばかりだった紙面が、20日の夕刊から一変し、KALの事件ばかり載っていた。そして、今日の一面には唖然とする。「核保有で完全防衛を−来栖統幕議長が強調」と戦争抑止力強化の必要性が飛び出した。一気に不穏な空気。海外旅行どころの話では無くなってきた。


 大学に入ってすぐ、口の達者な勧誘員に乗せられて、3ヶ月間西日本新聞を購読した。職員になってからは、事務室に熊日があるし、図書館に行けば何でも揃っているので、新聞購読という発想がなかった。しかし新居で、自分でも少しは社会人らしくと思ったのだろう。熊日購読開始。あの日は恐らく初めての日曜日だった。「来栖」という名前が妙に目に焼き付いている。小雨の降る暗い日曜日であった。
 航空機事件で初めて、韓国機の乗客の大半が日本人であることの理由が判った。東京−パリ間の航空運賃にはIAT(国際航空運賃協会)が料金協定を行っており、エコノミーが60万円、40人以上の団体なら53万円という設定がある。ところが、旅行関係者談で、「(この料金で買っているのは)よっぽどの金持ちか、無知」とのこと。この協会に属していない会社は自由な料金設定を行い、大韓航空で24万(それでも給料の2倍で、1ドル250円!!)、アエロフロート航空やエジプト航空は更に安いらしい。
 確かに、東京からパリに行くには、当時はアラスカに寄るか南回りで、エジプト経由しかなかったのだ。いや、第三の道があった。「ソ連の飛行機に乗ればいいのか・・。撃墜されることはあり得ない」目から鱗とはこのことだった。早速、東京の幾つかの旅行会社にハガキを書き、アエロフロート関連の航空運賃を調べ始めた。

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2008.04.20   1978年4月16日



1978年4月16日(月)
 昨日、東京の多摩湖畔で日本初の女性だけのフルマラソン大会があった。誰も気にしていないが、僕にとっては、大事件である。マラソンは死闘なので、女性は精神的に耐えられるのかということがまず気になる。
 今日、S先生にドイツ橋梁調査の計画書と旅行関連の資料を貸していただいた。何という几帳面さ。とてもこんな丁寧な旅程を作れそうにない。また、旅の途中で入手された様々な資料を、すべて持ち帰って、スクラップブックに丁寧に貼り付けてある。全部貸していただいて、アパートで眺める。
 「フランクフルトにいったら、ゲーテ・ハウス。ボンやったら、べートーベン・ハスウくらいは行っとかんとな!」と周辺情報も丁寧に教えてもらった。右も左も判らない我が子を諭すような感じだ。それにS先生は、ベートーベン好きらしいのでそんなことにも気が回るのだろう。僕はクラシックは、バロックくらいはBGMで聞くこともあるが、基本的に興味がない。偉人の住んだ家を訪ねるという発想自体がなかった。ゲーテに至っては、確かに1行も読んだことがない。大まかな教養も仕入れておかないと、橋だけ見て帰っても何かいわれるかもしれない。そうなると興味のないドイツやオランダのことまで勉強しておかなければならないのは、結構気が滅入る。


 私のマラソン好きはかなりのものである。実際あの頃はよく走ったが、ジョギングの類にすぎない。子供の頃に眼前で展開されたのは本当に真剣勝負だった。歴史的な名場面を何度か目の当たりにした。粉雪の中で独走する寺沢の勇姿(誰も興味ないでしょうね)。世界最高記録の時は、子供たちはみんな一緒に走った。
 一番寒い頃に別大マラソンはある。コタツの中でラジオを聞く。スタートするとのんびりと支度して目の前の電車通り(国道10号)に出ていく。新聞社の小旗を振っていると、走者の塊が怒濤のように大分方面に消えていく。それから2時間もすると今度は、数名の集団がゴール目指して、まさに死闘を繰り返す。テレビは美しい画像しか流さないので、マラソンが「死闘(修羅場のほうが正確かもしれない)である」という常識が見えない。
 高校のとき、「後3キロ」だかのプラカードをもって別府湾の見える国道でたたずんでいた(別府の高校生の仕事)。今は、大学教授でもあり、陸上連盟の理事でもある人が、当時期待の新人で端正な顔立ちもあって大人気だった。しかし、過酷なレースに彼には耐えられなかった。寒さに震えながら立っている私のすぐ横で、ヨタヨタし始めると、もがくように四つんばいになった。遙か遠くのゴールが見えているかのように、一瞬前方を凝視し、今度は深々と一礼した。私にはそう思えた。それ以外に走者がすることがあるようには思えなかった。しかし、その後に彼がやったのは、胃の腑にある物すべてを吐き出し、さらに嗚咽しながら何かを叫ぶことだけだ。しかし口からは声さえも出ない。むしろ、目からも鼻からも何かが垂れ落ちている。凄絶な光景だ。我々は彼を抱き起こすことが出来ない。彼自身が「走れない」と宣言するまでは、彼は走者なのだ。激しく海風が吹き寄せる海岸沿いの国道には、私たちスタッフしかいない。あたりは夕暮れがせまり、ラジオではアナウンサーが、すでに終わったレースの回想を始めていた。
 マラソンとはそれ程に過酷で、痴態の総てをさらけ出さねばならぬ競技なのだ。女性はその様な悲惨に耐えられるだろうか。私が30年前に、何よりも先に感じたのはそのことである。
 ちなみにその後、それ以上の修羅場を女子マラソンのテレビ中継で見た。私は涙を出すことも忘れ、カメラが避け続けた画面の裏を読んだ。女性はすごいことに耐えるものだと慄然とした。その事件以来、私は女子マラソンもまた真剣勝負だと認めた。

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2008.04.18   1978年4月10日(月)



 4月10日(月)
明日は入学式。昼から入科式の準備をする。教官も助手も技官も全員が一斉にやればすぐ済むのだが、やれと言われた人だけがやるので、今日は2人。時間がかかる。机を並べたり、配付資料を揃えたり、これで給料もらえるのだから幸せといわれればそれまでだが、大学の無意味な徒弟制度には首をかしげたくなる。どうせ明日もこんなことで一日が過ぎて行くのだろう。
 夕方になって、M先生から、「例の幾何学的非線形問題に良い例題があるので、2,3日のうちに解析してみてください」との指示を頂いた。これこそ本務のはずなのだが、晩飯を食って、11時までミニコン室で計算する。理論式がおかしいのか、僕のプログラムが変のなのか。きっと前者だと思うのだけれど、面と向かって言い切る度胸も知識もない。「何か変ですね」くらいで今週はすぎていくのだろうな・・。
 
 カメラを買おうと思っている。連休に帰省し、Canon Autoboy を持って来ることにしていたが、これでは、間に合いそうにない。で、昨日は紀伊国屋で、『カメラの実際知識』750円を買った。読み始めたが、難しすぎる。いや、いらないことを書きすぎだと思う。「1章カメラの概説」は良いとして。「2章写真レンズ」は全く物理の教科書のようだ。「物体と像の位置」「像の大きさ」「縦倍率と角倍率」くらいまでは、何とか付いていったが、「球面収差」辺りからあやしい。まだその後には、「非点収差」「局面湾曲」「色収差」・・「過焦点距離」「焦点深度」「被写界深度」・、と日本語とは思えない言葉が続く。学者が読めばいい本で、素人に必要な「3章シャッターと露出」は53頁からしか始まらない。
 旅程の確定、パスポートやイエローカードの取得、旅行用品の調達、航空券の手配等々やらないと行けないことは山のようにあるのに、「新学期」と「レンズの特性」が立ちはだかり、先へすすめない。「非線形問題解析」より遙かに難しい関門だ。



 私には変なくせがある。明らかに間違ってるのだが今もその傾向はある。やりたいことがあると、とりあえず本屋に行く。ピアノが上手になりたいので、『上手なピアノの弾き方』の本を買うといった類だ。しかも買った本はじっくり読むための物だと思っているので、初めから順々に読んでいく。カメラの本もこうして、レンズだけで挫折した。いまだに、露出がどんな意味を持っているのはっきり説明は出来そうにない。この本から学んだのは、我々の目玉には、「光しか飛び込んで来ていない」ということだ、「色から形を推定している」と言い換えても良いのかもしれない。

 Canon Autoboyというのは、主婦(=素人の時代でした)でも写せるカメラの先駆けとなったものだ。なぜだか母親が持っていた。ただしオモチャに等しいので、もう少し本格的な物を買う必要があった。当時カメラ部にいた卒研生のY君に相談した。「11万以下で、最新で、押せば撮れて、ズームレンズもついている」というリクエストで、6月頃まで調べてくれることになった。

 11万の意味が、最近わかった。私の当時の月給だ。多いのか、少ないのか。自宅の急な造作があり、2月から4万の仕送りをしていたので、引っ越しも含め、貯金を取り崩して使っていたはずだ。100万近くはあった。つまり、2年間の給料の半分は、貯金していたことにある。私にとって、「洋行(当時まだそんな言い方をしていた)」は生涯をかけた大事件だったのだと改めて実感した。

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2008.04.10   1978/04/01



4月1日(土)
 「苦境の首相 問われる指導性」が熊日一面の見出し。成田、日中、円高、福田内閣はもう後がなさそうである。あすは、熊本市立博物館の開館。建築は黒川事務所、僕は外側には全く関心がない。この日の新聞で、最も興味を持ったのは、深夜のラジオ番組(オールナイト・ニッポン)の司会者が一新されたことだ。しかし、こんな若い素人のような連中で、ラジオのパーソナリティは務まるのだろうか。
月曜:松山千春
火曜:所ジョージ
水曜:タモリ
木曜:南こうせつ
金曜:つぼいノリオ
土曜:鶴光
3時までは確実に起きているので、ラジオは必需品だ。

 今日の午後は、紀伊国屋3階の洋書コーナーでトーマス・クックの時刻表を立ち読みしていた。話の流れ上、この単語(たとえば、vv)はこういう意味のはずだと類推しながら根気よく、3時間は粘った。解ったことは、@汽車の本数が少ない。A上りと下りを同じ表に上下の矢印で書き込んである。B聞いたこともない街の名前が山のようにある位だ。Contdが「続き」だというのも、何となく理解したのだけれど、問題は、notes(注記)が多すぎること。A,Bの2個位なら、可愛いが、x,y,zまであると、何が何だか判らない。祝日は動くのか、夏休みはどうなのか。よっぼど、きちんと理解しておかないと、大失敗をしそうだ。心配でもあり、『最新・鉄道の旅(三修社)』と『ヨーロッパの鉄道旅行(交通公社)』2冊で1630円を買う。ユーレールパスの購入を検討することにした。

 夕方から、『幸せの黄色いハンカチ』を観る。素直に良い映画であると思った。かなり、人恋しくなってしまう。帰宅の途中、12時頃『おばちゃん食堂』で、焼酎を飲みながら晩めし食っていると、後輩のT君がやってきた。2時近くまで、取りとめのない話をして過ごす。自分の就職もままならないのに、他人の人生相談というのもばかげたことではある。Martineさんから手紙があった。明日には速攻で返事を書きたい。いよいよ7月10日出発を目標に旅行準備に邁進しなくてはならない。


 さて、当時の自分の給料が幾らだったか記憶がない。本の値段だけ、メモしてあったので知りたくなった。初めの頃は、工学部事務室(1号館2階)まで取りに行っていたが、すぐに銀行振り込みになってしまった。大学にではなく、肥後銀行に雇われているような気がした。
 この頃、綱淵謙錠に凝っていて、『苔』『朔』『冤』を読み、最後が『斬』だった。『苔』には強く惹かれるものがあった。歴史の中の敗れ去ったもの達への共感というのが、当時の私の心情そのものだったのだろう。今でも最後の真っ赤なシーンは記憶に鮮明だ。『斬』繋がりで、『パリの断頭台』という死刑執行人の一族の本を読んだりもしている。カポーティの『冷血』やウイルソンの連続殺人の本を読んだりと、夜中はかなり心が荒んではいた。それだけに、あの日の映画はほんとに私の心を癒した。
また、フランス物の少し新しいものを読んでいる。犬飼道子の『セーヌの左岸』と『右岸』や『パリ文学案内』、森有正の『遙かなノートル・ダム』等。評伝では、河盛好蔵のボードレール『パリの憂鬱』を奮発して買ったのもこの頃である。今から見れば、十分古い本ばかりなのだが、荷風や藤村、辰野隆のパリしか知らなかったので、私にとっては、最新のパリ情報であった。
 しかし実は、本当に恥ずかしいことだけれど、当時一番のマイブームは、フランスの少女小説であった。東京に行くと必ず神田を回り、そんな本を探していた。フランス語で読み通せるのはこれくらいで、サンテグジュペリのVol de Nuit(夜間飛行)は1年以上かかったし、モーリアックのLes chemins de la mer(海への道)に至っては、登場人物の区別すらはっきりしない上に、タイトルの道が複数形なのかが未だにはっきりしない。夜間飛行は、本を章ごとにバラし、どれかを持ち歩いて時間があれば読んでいた。今は全くだめになったが、実際に、ある程度は読めていた。しかし目的が不明確な語学勉強は実らなかった。I 先生に頂戴した本だけは読了した。そうしないと、お礼の手紙が書けないからだ。いずれにしても、3ヶ月後に私の語学力は、ヨーロッパの各地で馬脚を表すこととなる。


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2008.04.02   1978/03/27



3月27日(月)
最近一番の心配事は飛行機のこと。25日の朝も、ラングーン空港上空でビルマ国営機が空中で爆発炎上、「邦人6人を含も48人全員死亡」と新聞は伝えた。そして、今日の紙面には全段ぶち抜きの文字が踊る。「過激派、管制塔を占拠」、「(4月)2日運行開始は絶望的」、「第4インター中心の混成軍」。成田から飛行機は飛ばないのだろうか。週刊誌でも、空港のコンコースに、ずらりとしかれた布団の写真が写っている。機動隊が常駐しているが、それでも4月開通は実現しなかった。福田首相の談話も力がない。

一方、世間の騒乱をうけて、僕の暮らしにも、久しぶりに書くべきことがある。
昨日で引っ越しは完了した。8年間暮らした黒髪から脱出し、龍神橋を越えたところまではたどり着いた。これまでは、4畳+0.5の押し入れという最下層の学生生活であった。必要度の高い順に全電化製品を並べると電気スタンド、ラジオ、扇風機、コタツ、電熱器(お湯を沸かすため)となる。
今回の部屋は2階で、細長いワンルームでガス台が付いているし、べッドの下に2段の引きだしが作りつけられていて機能的だ。問題は机。階段を上がらなかったので、窓からは、ロープで引き挙げた。引っ越しは大変だった、リヤカーで引っ張りながら、友人が、「どうせ学校にしかおらんとに、何でこがんデカイと必要と?」か聞かれた。生返事しながら、大家さん夫婦を思い出していた。

8年前、初めて熊本へ来た頃。本当に右も左も全く判らなかった。大家さんから、「工学部なら、図面を描くので、大きな机がよかよ! 古道具屋で探すとよか!」と言われた。「それより、教養部まではどう行けばいいのか」が最大の関心事であった僕が、うわの空で立っていると、奥さんが大家さんに「あたが行って来て、見てくればいいた!」と促した。僕は、「行って、帰って、また行って、見て帰ってくるのか、時間がかかりそうな話だな・・・」などと考えながら佇んでいた。子供のない彼らは、世間知らずな学生の身の回りのことも熱心にやってくれた。数日後に部屋に帰ると、電電公社の備品番号の入た大きな木製の机だけがおかれていた。椅子は後日別の古道具屋からやってきた。
 思い出にふけってはいらればい。「暮らしを変える」ことで、少しは社会人らしくなれるかもしれない。アパートは新築で、まだ誰も越してきていないので、昨日は全く静かだった。いよいよ助手生活も3年目に入るが、どうなるか心配ではある。



春休みになり、旅行へ向け具体的な作業に入りつつあった。それだけに、成田の文字や航空機事故の話題には大変敏感になっていた。この年の前半は特に事故関係の話題が相次いだ。飛行機に乗らずに欧州へ行く方法を調べたりしたのは、確かに引っ越し後だった。

「測量実習の面倒を、2,3年みるか」という恩師の言葉で、私の助手生活は始まった。それはつまり、長くても3年後には、きちんとしたところに就職しなさいという意味だ。実際私の場合、自分の所属した講座(構力研)に残ったわけではない。橋梁研の助手が定年退官して、空いたポストだった。自分の研究室と比べ、楽しそうにも見えなかったので、多少迷ったが、大学院進学のK君やF君からは、熱烈歓迎された。当面学生と先生のつなぎ役になれれば良いと思った。そして、3年間の集大成が、フランス行き(表向きは『欧州4カ国橋梁調査』)である。まずは、パスポート取得から始めなければならない。


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