空間情報デザイン研究室
空間情報デザイン研究室 小林一郎
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2008.03.26   1978/03/24



3月24日(金)

昨日は、土木40名と環境土木20名の合格発表があった。熊日は例のごとく、アイウエオ順ではなく、高校別に名前が載る。まずは熊高からである。競争倍率は4.2倍。

沢田知事談話で、県の伝統工芸館の建設予定地は千葉城の近くに決まるらしい。もう一つの大きなニュースは、大洋デパートの更正計画案が5月に提出されるということ。もっぱらの噂では、会社は存続しなくなるらしい。

大分や宮崎出身者にしてみたら、デパートが2つあるというのが、大都市の規準なので、その一つがなくなるというのは、大事件である。

僕はといえば、飲み過ぎで体調は最悪。昨夜の謝恩会でトコトン飲んだせいなのか、長期的な体調不良なのか。騒ぎすぎて、声もかすれている。宴会では、「ユッフォー」が大流行で、みんなやっている。

一応、別府大学の仏文科のI先生にお願いし、フランス語学習ツアーという団体に入れてもらって、パリ往復の切符を手に入れる運びとなった。

シリアのBanaさんからの小包が、研究室に届く。4冊の童話が入っていたが、アラブ語なので全く理解できない。7月はじめにはパリにいるとのことであったが、どうも怪しげである。一方、Martine さんは、今年はヴァカンスは取らないので、ずっと地元(トロワ)にいるらしい。市内唯一のデパートの店員で、郊外から車で通勤しているとのこと。カセットや絵本を送ってもらったので、木目込み人形の軽いやつを送った。トロワ付近にめぼしい橋はないので、パリに滞在中に1泊くらいでとんぼ返りをすることになりそうだ。



もちろん、「ユッフォー」はピンク・レディのUFOのこと。ちなみに、この曲は、この年シングル・レコード売り上げ534万枚という、恐ろしいことをやってのけた。翌年まで、怪物的な記録を打ち立てつつ、ブラウン管で踊りまくった。はじめは男の子限定の良くある、タレントだったはずだが、小学生まで振り付けのまねを始めたので、あっという間に国民的なグループになった。紅白歌合戦の出場を強気にも拒否し、アメリカ進出をはかったりしたあたりからブームにかげりがでてくる。何れにしても、この年は彼女たちの絶頂期である。

I先生と私の関係は少し説明がいる。中学2年の時、彼女は新任の英語教師として赴任。東京のA大学の卒業らしいが、それが何なのか我々は全く知らない。おっとりとした身のこなしは、どこか大陸風であった。翌年には別府大学のフランス語科(正式名称不明)の教員となった。席待ちの英語教師だったのだ。
 なるほどそうだったのかと、僕らが納得したのは、英語の先生なのに、放課後になるとフレンチ・ポップスの歌詞カードを持って来るように生徒に要求した。ある学生はドーナツ盤を買ってその歌詞カードを見せたし、ある者は明星や平凡(懐かしいですね)の付録の歌本を持ってきた。「ヘーそういう意味なの」とか「今回のは間違いがおおいわねー」などと独り言をいいつつ、歌詞を読んでいた。僕らはそれを眺めながら、シルビー・バルタンより新人のフランス・ギャルの方が可愛いとかいって時間を潰していた(今でも、言えと言われれば10人以上の歌手名を言える。それほどに、フランスは日本の若者に身近な所にあった)。私のごひいきは、シャンタル・ゴヤなのだが、今となっては、誰も知らないだろう。案外映画好きの人はゴタール映画に出てい女の子といえば思い出すかも知れない。

 実は私が先生に親しくして頂くことになったのは、偶然の出来事がきっかけである。別府で有名な観光地に「楽天地(ラクテンチ)」という動物園を兼ねた遊園地がある。中学時代というのは、悪いことをするのが仕事のようなもので、あるとき、「ラクテンチ」の裏山に柵の壊れたところがあり、そこからタダで入れるという噂が立った。我々3人組みは早速出かけ遊園地内で楽しく遊んでいた。すると彼女とばったり出くわしたのだ。当時中学生は父兄同伴(最近は父母同伴)でないと入れない。てっきり、お叱りを受けるものと思っていたら、「家は裏山のにあるので、寄っていく?」という話。この際従うしかない我々は「はい」、と答え付いていった。夕食をご馳走になり、遊園地内を横切ってケーブルカー山頂駅まで送って頂いた。なんとその付近の住民は遊園地を通り抜け、ケーブルカーに乗って通勤・通学をしていたのだ。

その後、大学生になっても私一人は、帰省すると彼女の所に出かけ、パリ・マッチ(フランスの週刊誌)の古いものをもらって帰ったりした。この年も1月3日にはお宅でチーズ・フォンデュという奇妙な食べ物をご馳走になり、私はいたく感激した。そして、フランに格安で行く方法について色々と相談に乗って頂いた。

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2008.03.19   1978/03/19



3月20日(月)

学年末の成績表作成のため「土木製図」と「測量実習」の採点をする。
それだけで終わった一日だった。大体、どうして担当教官でもない助手が採点し、
成績を出す必要があるのだろう。一日中気分が悪い。
ただし、昼間食堂でH先生から良いことを聞いた。

先生:海外かて、研修でいけるで。そんなンも知らんのかいな。
ぼく:エ? あのー、それで、2週間くらいいけますか。

先生:2週間でも、2ヶ月でも・・、あっ小林、研修テ、遊びに行くんと違うで。
ぼく:ハー? 国際会議とかですよね。

先生:いやそれだけやノーテ、橋梁調査とかすればエエネン
ぼく:橋梁調査? 調査なんかどうすればいいんですか。

先生:色んな所に行って、橋の写真取ってきて、講演すれば良いネン
ばく:アッ、S先生の吊橋の講演会みたいなやつですね!!

先生:君、あれ吊橋やノーテ斜張橋いうねんで。
ぼく:ハ?(漢字がわからない社長今日?)

とにかくすばらしい。旅行中は給料も出るらしい。
ただしそのためには、事前に調査し、
@最新の橋梁がどんなものであるか、
Aどこに架かっているか、
そして、
B行った証拠に、写真を取ること
(「失敗せんように2台は持って行かナいかんで。」という不吉なメッセージ付)


早速、明日S先生の旅程を教えてもらい、そっくりコピーして出せばいい。



実は、ここからが大変だった。
まず、斜張橋はドイツ中心に開発された技術なので、ドイツに行くしかない。S先生と同じ所ばかり行くのではなく、新しい橋も見ててきて欲しい(S先生らしいまじめな提案)。
次に、フランス・スペインにはないが、最近完成したものがあるらしい。
というところまでは、S先生に教えていただいた。

ありとあらゆる海外の橋梁関係の雑誌をしらべた。
職員になってはじめて勉強をしたといっていい。
見つけたら記事を2部コピーする、一枚は保存し、
もう一枚は橋だけ切り抜き、地図と照らし合わせ場所を確定すると、ノートに貼る。

元々、こういう作業が好きだったのかも知れない。
(これで給料くれるなら大学も良いところかも知れないと、はじめて思った)

1冊の橋梁調査ノートが完成した。
このとき、バルセロナに歩道の斜張橋ができているのを知った。
都合が良いことに北フランスにもブロトンヌ(道路橋)とルアーブル(歩道橋)にあった。
それどころか、世界最長の斜張橋(センタースパン404m)は何と、
フランスの南の端にある。私が唯一知っている町、ナントの近くらしい。
イタリアが見つからない。フィレンツェやベニスの近くをいくら探しても
斜張橋は見つからない。
断念するしかないのがつらいが、ドイツをはずすわけにはいかない。
実習中も図書館に行って、一筆書きで、行きたい町を描いてみたりした。
そして、遂に、旅程が確定した。

「50日間 欧州橋梁調査計画書」が完成したのは6月のことであった。


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2008.03.14   1978/03/14



3月14日(金)

またたく間に3月中旬。先週駅伝も終わったので、いよいよ、旅行の準備を始めないといけないのだが。ランニングの練習で、長期的に体力が落ちているのだろうか、
昨晩の痛飲が直接の原因なのだろうか体調が良くない。

1号館の電算室に行って、昼まで寝る。こんなことで良いのだろうか。
大体、3月から4月は、雑用ばかり続くし、A先生なんか、
「助手は雑用が本務、研究したければ、夜すればいい」と断言した。
しかし僕らの本務はランニングだ。晩ご飯の後は、つい飲んでしまう。
なかなか、研究をする時間がない。

それに、手紙もドンドン来るので、つい徹夜ということになってしまう。
ルーマニア語だのノルウエー語だのの勉強は中止し、
とにかくフランス語だけは読めるようになりたい。

ポーランドのMajaさんからの手紙には、夏に熊本に来たいと書いてある。
簡単に大学に入れるつもりなのだろう。どう説得すればいいのだろう。
それに、今ほしいものは「leads of Pentel pencil」とある。そんなもの
いくらでも送ってやれるけれど、あの国では手に入らないのだろうか・・

Martineさんからの手紙は、例によって判読不可能なので、
解読に4,5日かかりそう。急いで、フランス行きを決めたことを連絡したい。
というよりも、決断して、フランス行きを決めないといけない。
先生になんといえばいいのか難しい。

「夏、ペンフレンドの所に行きたいのですが・・」
中学生が親に言うような台詞なのが悲しい。



たしかに、当時の私は、
1)夕方のジョギング
2)夜中の作文
3)学校での雑用

3つのことを繰り返すだけだった。これでは、助手は育ちようがない。

卒研生には、Fortranを教え、FEMの概要を講義し、
あとは彼らに付き合て卒論を書く手伝いをするだけだった。

将来が、本当に不安だったが、
「ま、来年、大分県庁でも受験して・・・」という気持ちと、
「この際フランス人と結婚して、居候を決め込むか」という、
究極の2択しか残っていなかった(と思いこんでいた)。

しかしその前に、とにかく初めてのフランス行きを実現する
ことがこの頃の唯一の人生の目標だった。



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2008.03.04   1978/03/03



1978年3月3日(金)

最後の国立一期校の試験が始まった。来年からは共通1次何とかいう試験になるらしい。
浪人組にとっては、覚悟の3日間となるだろう。今回、僕は試験監督はやらなくて良いのだが、
国語の採点担当らしい。全学生の国語の一部の採点を任されるのは、気が滅入る。

毎日新聞によれば、昨日ようやく、成田新空港に汽車での燃料輸送が始まった。
450人のデモ隊がシュプレヒコールを繰り返す中、
5000人の警官に守られて(朝日新聞では6000となっている)、
空港はかろうじて、開通の日に漕ぎ着けるのだろうか。

テンポイントはこの所、危篤状態のままだ。恐らく駄目なのだろう。

円高も止まらない、正月には245円くらいだったのだが、
240円からズルズルと235円の新高値を更新した。
日本経済は、危機的状況らしいが、僕にとっては、
ちょっどでも上がって欲しいので、230円くらいまで下がることを祈っている。

スポーツ欄は中日・クラウンのオープン戦のみ。
デービス、土井、ハンセンが豪快に3連続アーチ。
今年は、良いかもしれない。



新聞の第1面に連日のように『シュプレヒコール』という言葉が躍っていた。
あの頃のことを思い出すと、今の「ぬるさ」の中で、人々は本当に幸せなのかと思ってしまう。

当時の新聞のスポーツ欄(誌面は1面分しかなく、野球と相撲のみ)では、
パ・リーグの話題は野村が監督をやめ、ロッテで一選手としてプレイすること。
セ・リーグでは、長嶋監督と王選手の確執。
相撲は、相変わらず北の湖が勝ちまくり。

総理は福田で、内閣は夏まで持たないらしい・・・。日本は30年間あまり変わっていないようにも思う。

新聞を買う金がなかったので、いつも図書館で読んでいた。数社の読み比べで、各社結構数字も主張も違っていたように思う。何れにしても読売は、今でも読まない。

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2008.02.19   1978/02/12


どうすべきか。
いつになく悩んで、やはり書くことにした。


我が生涯の3大事件を選ぶとして、私の場合、1978年に1番と2番が重なって起こった。互いにほぼ無関係のその出来事のため、私は、2番目の(そして本当はもっと深く突き詰めるべきであった)出来事をキレイに忘れてしまっていた。

思い出せるかどうか解らないが、夏の50日間の旅行報告を書いていきたい。

ちなみに、30年前とはどんな時代だったのだろうか。
案外、人の記憶は、いい加減であることを思い知った。



1978年2月12日(土)

夕方8時のテレビ欄
・日本テレビ:プロレス「ジャイアント馬場 対 ラッシャー木村」
 →金曜でなく、土曜にぶつけたが、所詮裏番組
・TBS:7時から 「まんが日本むかしばなし」、「クイズダービー」
 そして、「8時だよ全員集合」
 →怪物番組と呼ばれた(俗悪とのレッテルも)

・フジ:7時半から 「欽ちゃんのドンとやってみよう(特集)」
 →それに対抗するこの番組も、今では怪物的であったことがわかる。

・テレビ朝日: 「総理と語る」
 →この時間に放映していることがすごい。
  ちなみに、総理は「福田赳夫」、聞き手は「黒柳徹子」
  口の重い福田総理が、結構本音を方たので、その後話題となった
・NHK:土曜ドラマ フランキー堺の「人生紙風船」の再放送
 →あまりにも強力なラインナップにHNKはやる気がない。

そして、助手2年目の僕は、TVを持っていない。
8年暮らした黒髪脱出を考えながら、
龍神橋近辺のアパートを探している。

今年の、そして人生の最大のイベントは、7月か始まる海外旅行!
飛行機に乗ったこともないので、「タラップを上がったら、靴を脱ぐこと」という話を70%は信じていた。

これから4ヶ月で、カバン、カメラ、パスポート、イエローカード
それに、給料の4倍もする航空機の切符、・・・・すべてをそろえないといけない。
なにもかも、どうすればいいのかわからない。
まずは、フランス政府観光局に手紙を書く。
「一体、フランスにはパリ以外にどんな町がありますか。」




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2007.05.31   さらば ナント


フランスに行って、強く感じるのは色彩感覚。

ごく普通の人が、ごく日常のなかで実践している
色彩へのこだわりがある。

たとえば、フランス国鉄の職員には制服はない(と思う)。
ところが、彼らは、半袖のハッピのような上着を着ている。
特に、駅の案内等をする場合。これはよく目立つだけでなく、
ジーンズによく合う。女性が着ているときなど、カッコイイと本当に思う。

ホテルの内装、まちのなかのウインドウの美しさ、・・・
それは、決して、無秩序な色の氾濫ではない。

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2007.05.30   2体の彫刻


大人の像はネモ船長。遙か大西洋を見ている。
では、少年の像は?

子供の隣に座って記念写真を撮るのだとしたら、
根も船長が背景に写ると理想的。

でも、2つの像の後ろ姿を写すのが特異点。
これが、作者の意図でもある。

正解を考えてください。

ps:近くにジュール・ヴェルヌ博物館がある。
  そこに行けば、彫刻の作者の話が出ています。
  博物館は、大したことはないけれど、
  この話には感心しました。



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2007.05.29   船酔い


海に活きるももの達は、悲しい。
運命とは、結局なにかに「ゆだねる」ものだと
思い定めなければならないのだから。
巨大な海原に乗り出す者達もそれを静かに待つ人達も
等しく、暗く静かに水平線を眺めて暮らすしかない。

日本人がポルトガル人を隣人だと感じるように、
私はこの土地の人たちの心情に寄り添うことができる。
いや、「できるような錯覚に襲われる」。

ところで、この寺院もまた、海の人々が暮らす町によくある
寺院のように感じるのだが、
ガルグ−ユ(彫刻を施した雨水を流す管)の異様さに驚いた。

学生語でいえば「超ぶっ飛んだ」デザインである。


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2007.05.28   歪んだ町


18世紀から19世紀の建物。
何か変だ。

大河に沿って発展したナントの歴史は、
様々に変化する流れとの戦いの物語でもある。
さらに言えば、支流を制御し、
埋め立ててた土地の変遷の履歴でもある。

この日、たまたま改修中の家があり、
「土木技術者なのだが、地下を見せてもらえないか」
と、工事中の青年に頼んでみた。
いかにもアラブの若者という風貌の彼は、
「僕も、アルジェの土木大学だ」と胸を張った。

土運びは本意ではなく、土木技術者(大規模建築も含む)こそが
彼の職業だといいたげだった。
「土木」という共通項が気に入られたのか、
地下に招き入れられ、地層を眺めた。
実に柔らかな粘土の混じった砂層である。

こんなものの上に石の伽藍が立っている。
唖然とし、すべてを了解した。





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2007.05.27   ナントFC 売ります。


40数年ぶりの2部リーグ落ち。

壁には、至る所に、
「責任者出て行け!」とか「ナントFC売ります」とか
書いてある。

新聞には、「埋葬(そのまま読むとほぼそういう意味の音になる)」

ちなみにこの新聞は、無料。

20分で読めるらしい。


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