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2008.09.07   一石


「一石」または「伽藍」について
F.フェリーニの『道』のなかで、主人公ジェルソミーナが「自分には何の価値もない」と悲嘆に暮れたとき、旅芸人に「こんな石にさえ価値がある」と諭される場面がある。美しいシークエンスだ。どれほど多くの人々がこの言葉に勇気づけられたことだろう。学生時代の私も、「そうか、一石でもそうなのだから、僕にも何かできるかも」と単純に、一つの石の価値を信じた。

同じ頃『戦う操縦士』を読んだ。大学図書館の本なので、正確な文章が確認できない。良い本は買っておくべきだと後悔している。その中で、「石が伽藍(大聖堂)を規定するのではなく、伽藍が石を定義する。」といった意味の文章があった(はっきり覚えていない)。重要なのは、石ころを幾ら集めても伽藍にはならないということだ。ある意図のもとに石が集められ、構築された時、伽藍となり、橋となる。

大事なのは「一石」ではなく、「石群」だ。つまり、一石がいかなる意図のもとに集められたかだ。パリでもケルンでも、伽藍は私に巨大なスケールで迫ってきたが、石群を統べる圧倒的な「意図」が伝わってこなかった。一方、遠く見え隠れする丘の上の伽藍シャルトルは、天空に向かって唯一無二という言葉の具体例を示していた。それは、量(スケール)のみでは到達できないものだということも理解した。石の文化というものの根幹にある何かを実感し、圧倒された一瞬だった。

九州工業大学・岡田君の『電車の敷石研究』に期待した。ある「意図」のもとに集められた石群が再び解かれ、それぞれの一石に戻ったとき、どんな価値があるのか。「意図の証としての一石」論とでもいえばいいのだろうか。石橋の残骸に価値はあるか、という問題にも通底する。逆に言えば、「意図」さえ示せれば、石は総替えしても良いのかという質問にもなる。世界遺産の評価(「科学技術遺産は可能か」)で論議されている問題にまで行き着きそうだ。

さて、研究室のHPの「スタッフ」欄の写真は、カルナックの石群だ。フランス・ブルターニュ地方に紀元前から存在する巨石群(直線状列石)は、明らかに人間の営為の賜だ。最近これを見学し、「唯一無二」という言葉を久しぶりに思い出した。HPを見たある人から「意味不明」といわれたが、私が是非ともその写真を載せるように求めたのは、1978年にも感じたその言葉の迫力を伝えたかったからだ。1978年の旅行記はこの説明のためにも書きたいと思った。

つまり、石を人に置き換えよう。「一人」はどのようにして「人群」となるのか。『戦う操縦士』の真意もそこにあったと思う。我々に別れがない理由も実はそこにある。「一人」は伽藍ではない。我々という集団が伽藍たるには、何が必要なのか。あまり、難しいことは言わないでおこう。関係を保つことが大事だ。去る者は追わないが、来るものは拒まない。しかし、「意図」を共有できないものは、集うべきではないだろう。



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